山野浩一論(仮) 第一章 第一節

 いま書いている『山野浩一論(仮)』の冒頭。全三章予定。

 

Ⅰ SF作家・山野浩一の出発――「全会一致」と「違和感」

 

 

 一九七一年、自身の主幹雑誌である『季刊NW‐SF』を創刊するなど積極的な評論活動を始め、既に批評家としてのキャリアを歩み出していた山野浩一は、みずからの「SFとの出会い」を次のように述懐している。

 

 私にとってSFとのほんとうの出会いは、SFを知ってのち随分たってからのことである。子供の頃には手塚治虫の漫画を愛読しており、SFというような言葉も相当以前から知っていて、「SFマガジン」も創刊当時に一度くらい読んだことがあったと思う。(…)しかし、その頃は特にSFの愛読者とはいえなかったし、SFを書こうと考えたことなどなかった。(…)かくて、私はこと志と異なってSF作家となったのだが、これがSFとのほんとうの出会いであったわけではない。私はそれから多くのSFを読むようになったが、確かにSFというものには思考世界を自由に展開できる素晴しい可能性がありながらそうした自由な思弁を切り開いた作品がほとんどないのである。(「THE HOME LIBRARY」 『ほるぷ新聞』一九七一年二月二十五日)

 

 この後山野は、「はっきり過去のSFへの不満を述べ」た「ニューウェーブ」SFと呼ばれる「運動」との共鳴、そしてその中心作家であるJ・G・バラードの「言葉」から「SFとのほんとうの出会い」が果たせたことを語っている。が、山野浩一が「SF」に対する意識を強くしていったのは、ほとんどデビュー以降だと言っていいだろう。じっさい、寺山修司の薦めから戯曲「受付の靴下」と小説「X電車に行こう」を書き上げ、後者がSF同人誌の『宇宙塵』、後に『SFマガジン』へ掲載されたその時から、「SFというものを知った」と言を残している。

 しかし、にもかかわらず、デビュー当時、山野の業界からの評価は高かった。高橋良平は、『鳥はいまどこを飛ぶか』(二〇一一年、創元SF文庫)の「解説」で、その頃の「新人作家」への鮮烈な印象を、当時の評言を並べながら振り返っている。それによれば、「X電車で行こう」が『宇宙塵』に初掲載された際には、「新人の作品が巻頭に載るのは、本誌としては初めてのケースですが、山野浩一氏の「X電車で行こう」は、充分それに値する傑作と思われます」といった異例の待遇、また二ヶ月後には、「最終校正まぎわにこの「あとがき」を書こうとしたところへ、三島由紀夫氏より来信あり。「X電車で行こう」が大変面白い、という文面である。(…)この作品の純文学的価値は、これでほとんど確定したといえよう。たいへんな新人が現れたものであるが、同時にこれは、文学におけるSF的方法の勝利とも考えられる」と境界横断的な評価を受けるなど、明らかに山野の才能に対し、多くの文学者が注目していた事実がうかがえるだろう。

 その後、七編の短編を収めて『X電車で行こう』(一九六五年、新書館)として単行本化された際には、二人の作家による「推薦文」が付された。星新一が、「リアリティとファンタジーを巧みに結合させ、読者をなにげないうちに、異様な驚きの世界に誘い込んでしまう」とその作風を評し、安部公房は、「もしもあなたが、現実主義者なら、気の合った魔術師とここでテーブルを共にできるだろう。逆にあなたが、空想家なら、気の合った合理主義者とここでテーブルを共にできるだろう」とその二面性を照射している。また、「この有望な新人に望みたいのは、日常性からの逃避の唄をうたうことではなく、‘‘日常性への衝撃‘‘の毒をまきちらすことだ」(石川喬司)、「氏の小説技術は必ずしも満足とはいえない。しかしながら氏のSFは考えさせるSFである。考えさせるSFはしばしば娯楽の気晴から足を踏み出すため大衆性は芽生えないかもしれないが、逆の面から見れば前衛文学の可能性も持っているのだ」(権田萬治)など、幾人の批評家が山野のもつ作家性について期待を込めつつ言及している。

 山野自身、この出発を回想して、「デビューにあたっては当時の文化人の多数に全会一致のような支持を受けている」と、周りの絶対的な評価を自認していた。1960年代前半、戦後に本格的なスタートを切った「歴史の浅」い国産の「ジャンルSF」が、「アメリカSF」に対する遅れを意識した上で成長していくこの時代に、山野浩一は、突如出現した「新人随一のホープ」(柴野拓美)にほかならなかったのである。

 

 さて、当時の日本SF界の状況を概観すれば、「戦後のSF専門誌第一号」と呼ばれる『星雲』(一九五四年)を嚆矢に「科学小説」の意義が囁かれると、世界的な「UFOブーム」の煽りを受けて発足した「空飛ぶ円盤研究会」(一九五五年)と、その会員であった柴野拓美による『宇宙塵』(一九五七年)の創刊から、星新一を始め、後の業界をリードしていく人々の集う場が形成される。そこから一九六〇年、福島正美による『SFマガジン』創刊までは数歩だった。だが、福島自身、創刊当時を回想して「この頃の、ぼく自身の気持は、いま思いだしても、ひどく重苦しいものだった」と語るように、「純粋に一つのかなり困難な出版事業」の成就にはひどく難航することとなる。当初、アメリカのSF雑誌『ファンタジー・&・サイエンス・フィクション』の「日本語版」の扱いだった『SFマガジン』は、しかし、前提知識の共有がなされていないために、ただ翻訳を掲載する措置がとれないという事情もあった。

 

 

MFSF[ファンタジー・&・サイエンス・フィクション]に限らず、アメリカのSF雑誌は、その当時すでに少なくとも三十年の伝統の上に編集されていた。それをそのままのかたちで作品をいかにうまく配置しても――日本の読者に与えたのでは、やはり、唐突な感じがするに決まっている。SFマガジンは、その三十年のギャップを埋め、しかも最新のSFの傾向をも反映するよう編集されていなければならない。そのためには、バックナンバーのみに依存せず、他の雑誌や短編集からも作品を渉猟しなければならない――(福島正美『未踏の時代』ハヤカワ文庫JA、二〇〇九年十二月、二七頁‐二八頁)

 

 

 こうした「試練」と同時に舵を切った『SFマガジン』だが、創刊から間もなく「空想科学小説コンテスト」(一九六〇年二月、第二回から「SFコンテスト」に名称変更)が開始されると、小松左京筒井康隆眉村卓平井和正半村良ら、数多くの才能を輩出することになる。そして、一九六二年に、契約金値上げの要求をきっかけに提携先からの「独立」を決断してから、日本SFは「転機」の瞬間を獲得し、「日本SF大会」の開催(一九六二年)と「日本SF作家クラブ」の発足(一九六三年)によって連帯はより強固になっていった。前者は「SF読者がまだ少なく、その概念も理解されていなかった時代」における「ファン」の拡大に寄与し、一方で後者は「[SF作家、翻訳家、評論家の]利益の拡充と擁護のための、職能団体としての組織」を目指して「プロ」の線引きを明確化した。この「団体」を発起させた前述の福島正美が、「ぼくの目的は、SFのために人生と生活とを賭けているプロと、そうでないアマチュアを、截然と区別することであった」と語っていたように、ここから日本において「SF作家」という「職業」が生まれたと言っていいだろう。福島はクラブ創設の「思考プロセス」を次のように述べる。

 

 ジャーナリズム一般は、SFを、まだ毛色の変った娯楽読物としてしか――せいぜい、ミステリーの変種か、伝奇小説の現代版くらいにしか受けとろうとしていなかった。(…)彼らにとっては、プロのSF作家も、同人作家も、大して変わりはなかった。(…)ぼくにとって、もしSFが何らかの意味を持つとしたら、まず、こうしたジャーナリズム一般の偏見を除去しなければならない。それらを打破して、はじめてSFは一人前になりうる。そしてそのためには、SFのプロは、プロとしての自己と、そうでないものと峻別しなければならない――。(前掲書、九六頁)

 

 このようにして日本SF界はほとんど十年も経たずに急速に整備されていったが、成熟はまた同時にそれぞれの作家の「思想」を深化させていく。小松左京が自身の「SF論」を披歴するようになれば、福島正美は当時において「影響力を持つ文壇人」だった荒正人と激しい「論争」を引き起こすなど、独り立ちした日本SFは徐々に理念と葛藤を加速させていき、ここに「日本におけるSF批評」の萌芽と「日本SF論争史」の系譜が編み出されていく。

 

 が、ここで重要なのは、以上のような日本SFの中心(プロ)と周縁(アマチュア)の画定と、そこから〈論争=批評〉の土壌が生成されつつあった最中に、山野浩一の台頭があったという流れだろう。 六四年のデビュー以降も、山野は『宇宙塵』を中心に小説を発表していくが、「いわゆるハードSF的なお約束」への「批判的な思い」から書かれた作品群は、次第に「科学小説」読者からの不満を呼び起こすようになる。とりわけ、「ギターと宇宙船」(一九六五年一一月)という短編の感想には、「面白くない作品です」と直截的な非難が浴びせられ、その上で「SFの主流ではない。いや、SFのかたちをとってはいるが、全くSFではないようにさえ見えます」と、「SFと他ジャンルのボーダーライン」と形容されるような山野の作風を、オーセンティックなSF読者の立場から断罪している。それに対して山野は「小生の客観的な意味でのSFの主流ではないかもしれませんが、小生の書きたいものが現段階の主流と一致しなくても仕方がないでしょう」と応答を試み、「「宇宙塵」が「宇宙塵」向きの作品ばかりを掲載していたのでは、発展性を失うでしょうし、ある意味でのさまざまな言論上の対立は必要なことでしょう」と応えており、この時点で〈宇宙塵=SF業界〉に対する「違和感」が早くもせり出していたことが分かる。そして、一九六六年に、周囲の批判の声に決着をつけるようにして「開放時間」(一九六六年四~六月)を完結させると、それ以降は『宇宙塵』から距離を置き、「創作がぷっつりと途絶え」てしまう。しかし同時にその離反は、「SF界で通念化していた出自にまつわる‘‘科学小説主義‘‘、未来や宇宙や時間やロボットなどの‘‘テーマ主義‘‘といった制度を嗜好するSF観に、疑問を呈するポレミックな評論活動に軸足を移す」契機=転回もまた意味していた。そうして山野浩一は、自身の考える「SF」とそれをとりまく状況へのズレの意識を、「小説」から「批評」へ主戦場を移しながら前面化させていく。一九七〇年に発刊された『季刊NW-SF』はその「違和感」を決定的に「かたち」にした雑誌と言えるが、巻頭号の序文として書かれた「NW-SF宣言」は、文字通り山野の「SF観」を表明する迷いなき「宣言」として読むことができる。

 

 

SFが〈Science Fiction〉から〈Speculative Fiction〉に名を変えたのは最近である。名を変えたといっても、決して〈Science Fiction〉が消滅したのではなく、むしろ現在でも〈Speculative Fiction〉が少数派で、〈Science Fiction〉が大部分の人々がSFと信じていることは否めない事実である。(…)私はこうしたことに、長い間不満といらだちを感じていた。そんな中で、ブライアン・オールディスや、J・G・バラードといった優れた作家の登場と、彼等による「ニューワールド」誌の発刊はどれだけ喜ぶべきできごとであったか計り知れないものがある。

 「ニューワールド」誌はSFを〈Speculative Fiction〉と名付け、真に私の期待した作品を開拓し始めた。SF界はニューワールド派を、「ニューウェーヴ」と呼んだが、私もここに「ニューワールド」と「ニューウェーヴ」からとったNW‐SFという名の雑誌を発刊する決心をした。NWには、かつて「ワンダー」と呼ばれたアイデア時代のSFへの反発の意味での「ノーワンダー」という意味も含まれている。(山野浩一NW-SF宣言」『季刊NW-SF vol.1』NW-SF社、一九七〇七月、一‐二頁)

 

 

 そして山野は、『季刊NW-SF』は「従来のSF読者には不満な作品や評論ばかりが掲載されるであろう。SFを「科学小説」と考えたり、或いはSFにアイデアのエンターテイメントを求めたり、また、大冒険活劇を求めたりする読者の気持は充たされないものかもしれない」と断った上で、「しかし、未だ少数派ながら、私は、これこそSFだといいたい。SFは〈Speculative Fiction〉――つまり、思考世界の小説だと」と書き付けるのである。ただし、ここで注意したいのは、山野が「ブライアン・オールディスや、J・G・バラードといった優れた作家の登場と、彼等による「ニューワールド」誌の発刊」から、〈思考世界の小説=Speculative Fiction〉を発見したわけではないという点である。初めて「ニューウェーヴSF」が本格的に日本へ紹介されたのは、一九六九年十月号の『SFマガジン』による「特集=新しい波」からだとされているが、前述の通り、山野自身の問題意識はその約三年前からすでに現れ出していた。とすれば、山野浩一にとって「ニューウェーヴSF」の発見とは、自身の思想を根本的に変えさせたような転機の出逢いというより、あくまでデビュー以来抱き続けてきた信念への確かな裏付けにほかならなかった。

 しかし、だとすれば、山野の「評論活動」が開始されてからの四年間は、そのような裏付けの言葉なしに進められたということも意味しているだろう。だが、事実、一九六六年に芽生えていた「違和感」を腑に落としていくまでの過程を問えば、そこには山野とほぼ同時代を生きながら、『季刊NW-SF』創刊と同年にSF作家として歩み出し、その初期作品から高度な「思考世界の小説」を展開してみせていた男である荒巻義雄の存在、そして、まさしく一九六六年から繰り広げられていた両者の「論争」の跡が色濃く見出されるのである。一九九〇年代の「架空戦記小説」で一躍ベストセラー作家としての地位を確立した荒巻義雄は、しかし、その初期には精神分析学の理論体系やシュルレアリスムのイメージを借りた作風で独自の〈Speculative Fiction 〉を構築していた。「一九七〇年以来、SF作家として一八〇冊を超える著作を書いてきたわたしですが、出発点は「術の小説論」でした」と言う荒巻だが、その「術の小説論」という彼の処女評論こそほかならぬ山野浩一との「論争」から生み出されたものであり、他方で、また詳しく後述するが、「日本SFの原点と指向」という山野の代表的な評論が荒巻義雄との「論争」の流れに位置付けできるものである以上、二人のSF作家は、互いに影響を与え合いながらそれぞれの理論を作り上げていったことは疑い得ない。

 したがって、当時いまだ駆け出しの「新人」であった山野浩一が抱えていた「疑問」の端緒を摑むには、〈山野‐荒巻論争〉の内実を改めて一から読解するほかないだろう。次節では、「日本SF史上、大きな刻印を残」したこの「論争」の履歴を追跡するとともに山野の「SF観」が次第に固められていく過程を見届けていく。が、先取りすれば、無論ここで強調したいのは両者の同一性ではなく差異性であり、その違いのなかから、山野浩一という固有名も徐々にその輪郭を際立たせてくるはずだ。

「内宇宙」が「セカイ」と出逢う――私の「ゼロ年代」

※以下は2018年の秋に発刊された『Rhetorica#04 ver.0.0』 (特集:棲家) に寄稿した論考の再掲です (編集部からの許諾は得ております) 。

なお本稿は、誌内のうちで直前に置かれた座談会 (「伊藤計劃連続体――一〇年代日本SFのワンシーン」) への「応答」という意味でも書かれたもので、あくまで雑誌全体の一部としてあるものです。

なので、できればぜひとも雑誌本体を手にとってもらうのを推奨します (現在在庫切れとのことですが、増刷の予定はあるそうです) 。本稿はその「判断」のひとつとしても、お読みください。
通販→
http://rheto4.rhetorica.jp/



1


 私と「ゼロ年代」の出逢いは二〇一三年、高校に入学してすぐだった。

 以来、私が「ゼロ年代」に受けた衝撃、あるいは感銘とはどのようなものだったのかという問いは、いまでも奥底に流れ続けている。言うまでもないが「ゼロ年代」とは単に「二〇〇〇年代」の意味に過ぎず、それまで私は、そのディケイドの間に登場したひとつのコンテンツも知らずに生きてきた。にもかかわらず、なぜそんな人間がこの〈時代精神〉に共鳴したのか。このような問いについては単純に、「ただそういう運命だった」と答えるしかないだろう。が、それでも、私にとって「ゼロ年代」とはある「文学体験」の一種であったと言うことはできるかもしれない。

 前島賢は、「セカイ系という語の流行」を大きな「文芸運動」のムーブメントとして捉えている(注1)。「セカイ系」とは一般的に、「主人公とその恋愛相手とのあいだの小さな人間関係が、社会や国家のような中間項を挟むことなく、「世界の危機」、「この世の終わり」といった大きな問題と直結するような想像力」だとされているが、私がショックを受けたのもまた「ゼロ年代」の〈文芸=小説〉にほかならなかった。

 その意味で、講談社が二〇〇三年に創刊した文芸誌の『ファウスト』は、私にとって決定的な一撃だった。西尾維新舞城王太郎の描く「セカイ」に触れて、それまで学校の教科書に載っているものが「小説」だと思っていた固定概念がひっくり返されたし、「ハイカルチャーサブカルチャーだ、学問だオタクだ、大人向けだ子供向けだ、芸術だエンターテインメントだといった区別なしに、自由に分析」(注2)する東浩紀の「批評」を読んで、一挙に視界が開けていく感覚をおぼえた。「ライトノベルとゲームが融合した新しい小説の可能性」(注3)。『ファウスト』はまさにこの「可能性」を担い、体現していただろうし、普通の「小説」にはない刺激をもとめて、私はそれに賭け、またすがるようにして読んでいった。

 だが、同時に立ち現われてくるのは「ゼロ年代」の作品に二〇一〇年代にもなって耽溺しているという、あまりに時代錯誤で滑稽な姿だったのではないか。東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』のなかで表明している問題意識は、まさに当時おかれていた私の立場と重なっているように見えた。
 

筆者の関心は、オタクという共同体や世代集団の
考察にではなく、彼らの生を通して見えてくる、
ポストモダンの生一般の考察にある。(…)その問
題意識は、むしろ、『動物化するポストモダン
が「動物的」と描写したポストモダンの消費者
が、それでも「人間的」に生きるためにはどのよ
うに世界に接すればよいのかという、前著から引
き継がれた、複雑でそして実存的な問題と深く関
係している。

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生講談社現代新書、二〇〇七年)


ゼロ年代」の小説やアニメ、ゲームなどへの純粋な〈オタク=動物〉だった私は、おそらくここで言われているような「人間」への回路を繋ぎ止めようともがいていたのではないか。「ゼロ年代」という「青春」を経て、自身の批評的なテーマを立ち上げようとしている裏には、こうした複雑で面倒くさい葛藤があるのだった。


また、「ゼロ年代」の「文学」に感じた圧倒的な衝撃をどう腑に落とすか、という問題に対して苦慮するなかで、小説家、文芸批評家である坂上秋成の存在が支えになっていたことも記しておきたい。坂上が「ゼロアカ道場」(注4)の最終審査で提出した論文の『クレオ―ル化する日本文学』では、柄谷行人が宣言した「近代文学の終り」――文学は社会と交点を結べないがゆえに価値を喪った――という言説に抗した上で、その解決策として、各文化圏がたがいの他者性を保存しつつ、なお政治的なものとも関係を結びうるという「クレオール化」(元はエドゥアール・グリッサンの用語)の概念が提唱される。そして純文学からノベルゲームまでを視野に、その実態をジャンル横断的に示していった。成否はどうあれ、「ゼロ年代」の議論を「文学」の側から引き受け、そこから「新しい小説の可能性」を提示しようとする姿勢に、私は強く勇気付けられた。

坂上は「ゼロアカ道場」後の別の評論でも、「新たな小説」には、①「小説の外部から言葉を持ち込むこと」、②「小説そのものを内部から複数化すること」、③「登場人物を(…)自律した存在として扱うこと」の三点が要るといった「提案」をおこなっていたが、それを踏まえて次のように書いている。


こうした議論はライトノベルビジュアルノベル
までを射程に入れた小説の拡張の必要性を示すも
のであると同時に、純文学作品を外部へと開くた
めの回路ともなる。現代の日本文学の多くはジャ
ンルの内へ内へと深化することでリアリティを獲
得しようと努めている。(…)そのような泥沼を見
限り、小説内において対話を成立させ、そこにお
ける共振によって成立する言葉こそが見慣れぬ風
景を運んでくるのだと信じるべきだ。小説の未来
は、直線的な運動ではなく、複雑に張り巡らされ
た網の目を這いずり回るような行為の中にしか存
在しない。

坂上秋成「ラズノレーチェが運ぶもの 新たな小説への三つの提案」 『ユリイカ 二〇一〇年九月号』青土社 所収)


「純文学作品を外部へと開く」という意識は、批評にせよ小説にせよ、坂上が一貫してもっているテーマにほかならず、「ゼロ年代批評」の言説を単なる「サブカル論議」に終始させることなく「文学」一般の議論に接続させようとするある種の野心がそこにはあるだろう。


 さて、高校を卒業してからの私は、次第に「ゼロ年代」の後を追うこともしなくなっていった。過去への郷愁とその時代を生きていた人々に対する羨望はほとんど無意味なことだと分かっていたし、「いま、ここ」を肯定できない自分への焦りもあったからだ。そうして自然と近代文学や過去のSF小説を読みだしていくことになるのだが、そのなかで多分私は、原初的かつ個人的な「ゼロ年代」の問いに回答を与えてくれるような、ある種の保証を探していたのだと思う。「ゼロ年代」から距離をおいてもなお、そこから完全に離れることはできなかったのだ。

 そして、そんななか出逢ったとあるSF作家は、こう言ってよいなら、私の「理想」をそのまま「実践」してみせた人物だった。彼の問いはそのまま自分自身の問いなのではないか、という錯覚ともつかない感覚に身を委ねるようにして、私は二十代を迎えると同時にその男の書く文章を読んでいった。山野浩一という作家である。ここで山野の来歴を詳述する余裕はないが、六四年に小説家としてデビューした山野は、七〇年代に「ニューウェーヴSF」と呼ばれる前衛的なSF小説群を本格的に日本へ紹介し、その後サンリオSF文庫(創刊七八年~終刊八七年)というレーベルを立ち上げることになる。


この現代社会の中にあっては、人間の意識という
ものを、日常的な、自分の周囲の生活感覚だけで
捉えることが、どうにも不可能になってきてい
る。それにもかかわらず、日本のいわゆる純文学
は、なんとかしてそれらしい情況をこしらえてで
も、その中に閉じこもろうとしているわけで
(笑)。

(日野敬三・山野浩一「始まりはからっぽの世界」 『幻想文学 季刊夏号』一九八五年、幻想文学会出版局 所収)


われわれの意識が必ずしも今、こうやって渋谷に
来る間に見たものとか接したものとかだけに向い
ているわけではなく、その間何を考えているかと
いうと、アメリカで何がおこっているかを考えた
り、何年前かの事件を考えていたり、明日何しよ
うかと考えていたり、未来とか過去とか、空間的
に飛躍したことなんかを考えたりする。そういう
意識状況みたいなものは、今までの小説では提出
できないんじゃないか。

山野浩一荒俣宏松岡正剛『SFと気楽』一九七九年、工作舎


 前述した坂上秋成の「文学」への態度と接するような問題意識を、山野は三十年以上も前から抱えていた。その想いから創刊したサンリオSF文庫は、「バラード、レム、ディック」などの「新しい傾向のSF作家」と、「マルケスバーセルミ」などの「世界の前衛作家」を同一の俎上に載せた「新しい文学運動の核」だった(注5)。増田まもるは「山野さんの思想を表しているものはなにかと言われたら、ある意味、サンリオSF文庫のラインナップと言えるのではないでしょうか」(注6)と端的に指摘していたが、その「思想」とは同時に私の「理想」ではなかったか。つまり、「ゼロ年代」の「文学」にあった「なんでもあり」な猥雑さと、しかしそこでしか感じられなかった「ヤバさ」としか形容できないようなものが、私がその時代から受けた確かな一撃であったはずだ。

山野浩一は、その混沌を「ゼロ年代」の遥か前に感受し、小説や評論、あるいは行動において、私の〈思想=理想〉をそのまま生きている。少なくともそんな風に映った。だとすれば、高校時代から抱き続けてきた「ゼロ年代」の問いの正体に漸近するには、おそらくまず、彼の言葉の聴従から始めなければならないだろう。いまの私を動かしているものは、そんな直感でしかない。が、それがなくしてはおそらくどんな解釈も生まれないはずだ。

山野については今後包括的に論じるつもりだが、まずその動機は「ゼロ年代」の体験なくしては決して立ち上がってこなかった。長くなってしまったが、以上が「ゼロ年代」に対する私の現在の距離感と心境だ。


2


 自分語りはこのへんにして、先ほどの座談会について自分なりの所感を述べておきたい。私がとりわけ注目したのは、「伊藤計劃以後」のSF周辺について語られた箇所である。伊藤について紹介の必要はないだろうが、デビュー作の『虐殺器官』から「テロ、新自由主義経済、グローバリズム民間軍事会社、環境破壊、貧困など」について、SF的ガジェットを駆使して正面から「冷徹に」扱い(注7)、二〇〇九年、三四歳の若さで早逝してから現在もなお、後のSF作家に多大な影響を与えている作家である。そして、彼が作品のなかで剔抉した問題意識を継いだ若い作家たちのことを、人々は「伊藤計劃以後」の作家と呼んだ。

 興味深いのは、こうした消息をめぐる議論のなかで、「ポスト伊藤」(伊藤計劃以後)ならぬ「プレ伊藤」(伊藤計劃以前)の不在が指摘されていた点だ。果たして本当にそうなのだろうか。なるほど、たしかに前島賢が言うように、伊藤の存在を「リアル・フィクション」、「ファウスト系」から連続する「「ジャンルフィクションのなかで書かれた青春文学」の系譜」として見ることはできるだろう(注8)。が、そうした流れよりも、私たちはまた別の「プレ伊藤」の系譜に着目したい。たとえば、岡和田晃は「伊藤計劃以後」の「思想」を継承する作家の「要件」として、次の三つを挙げている。すなわち、「一、世界史的な視野をもって、紛争に代表される「例外状態」と現在を繋ぐこと」、「二、世代間の格差を(過去の作品を参照するなどして)批評的に埋めようとすること」、「三、サイバーパンク以後の、テクノロジーや情報環境への批判意識」である(注9)。その上で、樺山三英や宮内悠介などといった「伊藤計劃以後」の作家を論じていくことになるのだが、ここでただ一人「伊藤計劃以前」でありながら、その「思想」を正確に掴んでいた「日本SF第一世代」の作家を挙げている。その作家こそほかならぬ山野浩一だった。

 岡和田は、山野の短編小説である「殺人者の空」において現れる「何度も何度も同じ地点に戻」るほかない「革命闘争」の終わりなき閉塞感に、「「世界内戦」の現実」、「複雑な現実の様態」があると言う。また彼は、山野が逝去してから発表した追悼文でも、「ISIL(イスラム国)らのテロルが日常と一直線に結びつく、混迷の時代を先取りした内容」である山野の連作短編の『レヴォリューション』を評価している(注10)。この小説は、「理想国家」の設立を目指して闘争を繰り広げるものの、しかし最終的には目的は成就せず、なおも延々に「革命」し続けるといった悲劇的な内容で、山野の小説は、彼自身が体験した学生闘争の記憶を色濃く反映させたものが多い。

  岡和田も所属していた「限界小説研究会」は、二〇一〇年に『サブカルチャー戦争「セカイ系」から「世界内戦」へ』を刊行した。そこでは、9.11以降の時代状況の変化を捉えた上で、「セカイ系」の態度に見られる「ひきこもり」を担保する余裕がなくなった現状では、むしろ、「世界内戦」に代表される戦争表象を扱うようなコンテンツに注目すべきだという論陣を張っている。伊藤計劃山野浩一は、確かにそうした「内戦」下のリアル、そしてそこから逃避できないという隘路を、鋭敏に描いた作家だった。


が、「セカイ系」に胚胎する問題の裏に「世界内戦」の状況があったとするならば、私たちはまず、その問題の内実について探ってみたい。誤解を恐れず言えば、ここで言う「セカイ系の問題」をかなり早くから意識していた作家が山野浩一だった。どういうことか。その論理を把握するために、東浩紀の『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』における議論を援用しよう。まず、「セカイ系の問題」とは何か。東は本書で、「セカイ系作品」を「重要」視していたのは「作品」そのものの評価であるというより、それを生み出している「環境」の特性に注目していたからだと述べ、「ぼくの問題意識においては、セカイ系とは、文学の問題というより、むしろ社会の問題だったのです」と率直に語っている。その上で、東は「セカイ系」とは「文学」が「社会」を描けなくなった状況下で出現する想像力だという認識から、その欠落を「文学」の立場から問題視する。


セカイ系の困難、つまり「社会が描けない」「社
会を描く気になれない」「社会を描かなくてもい
い」という問題は、オタクやライトノベル、サブ
カルチャーにとどまらず、いまでは日本文化全体
に拡がっているとぼくは考えます。だとすれば、
そのような社会において、これからの文学はどう
なっていくのか、もう文学と社会は関係すること
がないのか、という問いが必然に出てくる。

東浩紀『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』二〇一三年、東京創元社

 
この「問い」の共有から東は、「文学と社会を、それぞれの方法で再縫合しようと試みてしまっている四人の作家」を論じている。が、私たちはここまでの論脈において、第三章の押井守論を読んでいきたい。というのも、東が指摘する〈押井=セカイ系〉の問題は、実は山野の陥ったそれとも深く呼応していると考えるからである。

 一九五一年生まれの押井は、「「理想の時代」「政治の季節」の終焉」を実際に体感してきた世代だった。彼はアニメーション監督として数々の傑作を世に送り出すことになるが、東によれば、押井の作品にはその時代の断絶の感覚が強く反映されているという。その感覚はひとことで「革命の不可能性」、または「革命の失敗」と呼ばれるものだった。


両者(引用者注:『とどのつまり…』と『紅い眼
鏡』。それぞれ押井の漫画、実写映画である)は
ともに、アニメスタジオの運営のような、本来は
政治的な意味をもたない事象を、あえて全共闘
語でおおげさに描写する構造になっており、それ
は結果的に、左翼運動の歴史を無意味化する強い
アイロニーを生み出しています。/そして、それ
らの作品において、押井が執拗に展開し続けたの
が、主人公がいったん社会を変えようと決意し、
政治的な活動に身を投じるが、しかし現実にはな
にごとも起こらずにいつもと同じ日常が流れ続け
る、という不能性の物語でした。

(同上)


事実、この感覚は山野も抱くものだった。前掲した『レヴォリューション』は、押井の描くこのような作品と限りなく近い構造をもっている。既に述べたように彼もかつて「政治の季節」の只中におり、そこで味わった「不能性」が、描かれる作品世界に充溢しているのである。そして、九本の短編のなかでその挫折を繰り返し描写するさまは、自然と読者に「ループ」という言葉を喚起させるだろう。東もまた押井の「モチーフ」として、「革命」のほかに、「作品の始まりと終わりが結びつき、物語が循環して主人公がその内部に閉じこめられてしまうループの構造」がある点を指摘している。それはまた、「象徴界(社会参加の目的)」の失墜による「想像界(自分探し)」の彷徨の果てに「現実界(リアリティの崩壊)」を招いてしまう、というような構造を表していた。

そして東は、そのような「ループ」を中心に扱った作品として『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と『スカイクロラ』を取り上げ、それぞれの分析をおこなっている。ここではその分析に深く立ち入ることはしないが、両者に共通する構造は次のようにまとめられている。


両者は、ともにセカイ系の困難に捕らわれた「子
ども」の物語です。主人公は成熟するこ 
とができない。(…)押井はそのような主人公を、
同じような未成熟の子どもたちばかりがいる楽園
に投げ込んだうえで、そこからの脱出を決意さ
せ、そしてさらに失敗に終わらせる、そのような
物語を記しています。(…)おまえたちは永遠にセ
カイ系の困難のなかに捕らわれたままなのだ、ま
るで押井は、そのように観客に語りかけているか
のようです。

(同上)

 
 しかし、他方で押井は、この残酷なまでな「困難」をそのまま受け入れたわけではなかったという。東は『スカイクロラ』の分析をさらに推し進め、その無限回の「ループ」から逆説的に生じる「希望」をも見るのだった。つまり、「今回」(=「一回」)の「失敗」は決してすべての「失敗」ではないのだから、「ループを維持し、つぎのチャンスに希望を託す」といった意味において。したがって、「セカイ系の困難」に対して押井は、「不能性のなかに徹底してとどま」ることで「その反復」から「だれか」への「希望」もまた夢見るだろう。それが、押井が「不能性」から到達した回答だった。東はこの押井像からふたたび『ビューティフル・ドリーマー』の読解を開始することになる。

だが、押井がこのような態度にたどり着いたとすれば、きわめて似た状況認識をもっていた山野浩一は、この問題にどう向き合ったのだろうか。それを考えるために私たちは『レヴォリューション』からおよそ三十年ぶりに書かれることになる、山野による最後の小説となった「地獄八景」の読解から始めなければならない。先取りすれば、この作品は「世界内戦」の空気を先駆的にキャッチして小説を書いた彼が、古希を迎え、七〇年生まれ以降の若い作家たちに刺激を受けるようにして書かれることになった、「セカイ系」についての小説である。


3


 整理しよう。「伊藤計劃以後」、ならぬ「伊藤計劃以前」がいないのではないかという問題から私たちは、伊藤が作品内で描いていた「思想」を先駆的に直感していた作家として、山野浩一がいたことを確認した。これは、伊藤や山野が、同時多発的な戦争状況である「世界内戦」の問題を鋭く抉り出す作家だったことを意味する。しかし、一方で山野はまた、「社会」の機能不全とそこから生じる「革命の不可能性」を激しく痛感した作家だったという事実を、東浩紀押井守論を通して理解した。つまり、少し見方を変えれば、山野の描く「終わらない戦争」は「世界内戦」のリアルであるとともに、「セカイ系」の袋小路をはっきりと示していたと言うことができるわけだ。


 さて、議論を再開する前に、「内宇宙」と呼ばれる用語について簡単な了解を得ておこう。というのも、山野の「セカイ系」観を考える上で、このタームが大きく関連することになるからだ。この語はSF作家であるJ・G・バラードの「内宇宙への道はどれか?」というテキストから生まれ、「星間旅行、地球外生物銀河戦争、あるいはそれらの混合からなるアイデア」から構成される――つまり通俗的SF小説の意匠である――「外宇宙」ではない「宇宙に背を向ける」ものとして発案された。バラードは次のように宣言する。


近未来において最も大きな発展がおこるのは、月
でも火星でもなく、地球上である。そして探検し
なければならないのは、外宇宙ではなく‘‘内宇
宙‘‘だ。唯一の未知の惑星は、地球なのだ。/真の
意味での最初のSFは、健忘症をわずらう男が浜辺
に寝ころび、錆びた自転車の車輪をながめなが
ら、両者の関係の究極にある本質をつきとめよう
とする、そんな物語になるはずだ。

J・G・バラード「内宇宙への道はどれか?」伊藤典夫訳 『季刊NW-SF 第一号』一九七〇年、NW-SF社 所収)


 またバラードは「内宇宙」のことを「現実の外世界と精神の内世界が出会い、融けあう領域」とも呼んでおり(注11)、「バラード読書ガイド やさしいバラード」のなかで牧眞司も指摘しているように、おそらくこの短い定義のほうが「内宇宙」の本質をよりよく表している。ここでは牧の簡潔な「内宇宙」の解説に従うことにしたい。牧によれば「‘‘内宇宙‘‘とはたんなる精神世界じゃ」なく、「あなたの目の前にある風景をキチンと見よう」とする純粋な行為にほかならないという。どういうことか。少し長くなるが、以下は牧の説明である。


人間は目に映ったままを受けとめることができ
ず、脳内で変換して「外世界」「物理世界」と見
なしてしまう。/だけど、ほんとうは、外世界と
内世界がそれぞれ独立してあるわけじゃない。ぼ
くらが目にしている風景は、外でも内でもなく、
もともと‘‘融けあった領域‘‘なのだ。(…)ひとは風
景を見ているとき(あるいは生きているとき)、
自分は「内」側から「外」側をのぞいていると思
わないだろう。ただ、そこにいると感じているだ
けだ。さらに、これは頻繁におこることではない
けれど、ある瞬間に眺めている対象との距離が消
えうせ、自分と世界がわかちがたく結びついてい
ると感じるときすらある(それは空間のみならず
時間にもあてはまるのだが、ここでは詳しく述べ
る余裕がない)。‘‘内宇宙‘‘とは、せんじつめればそ
の実感だ。

牧眞司「バラード読書ガイド やさしいバラード」 『SFマガジン 二〇〇九年一一月号』早川書房 所収)


 要するに「内宇宙」とは、先入見を排してただ対象と向き合い、その照合から生じる〈直観=センス・オブ・ワンダー〉だというのである。私たちもまた、さしあたって「内宇宙」を以上のように想定しておきたい。


4


 既述のように、「地獄八景」は山野浩一が三十年ぶりに書いた短編小説である。傑作選が出た際に「私の創作はきちっと完結して」いると断言した山野だったが(注12)、最近の日本のSF作家の活躍に触発されるようにしてそれは生まれた。そして、その舞台となったのは「地獄」、すなわち死後の世界だった。

 物語は、主人公の「私」――明記はされていないがおそらく男性だと思われる――が突如「地獄門」と呼ばれる巨大な木造建築の前に放り出されるシーンから始まる。そこには「私」以外にも大量の「亡霊」が群がっており、やがて「コンサートホールの開門とともに入場していく観客たちのよう」に大挙して移動していく。彼らを先導しているのは若い女性の姿をした「ツアーガイド」の霊だった。ここから「私」の「地獄旅行」の遍歴が描かれていくのが、この小説の内容だ。

「地獄」の世界について必要な知識をもとめた「私」は、さまざまな「亡霊」に導かれるままにあらゆる「地獄」を尋ねていくことになる。たとえば、いまだに前世への執着がある霊が集う「血の池地獄」は、「死の意味を知り、自分の死を考え、死はどんな場でも訪れることを理解」するために存在し、そこでは「テレビジョン画面で見慣れた東日本大震災による津波の光景」、あるいは「船上と水中から激しい銃撃が」繰り広げられる「泥沼の戦争」が、立体ホログラムのようなもので映し出される。その光景はあたかも前述した「内戦」のリアルを描いているようでもある。

後に説明されるのだが、この「地獄」とはインターネットの発達に従って、タンパク質結合によるニューロネットで構成され、脳波を通じて接続されたネット網であったことが判明する。そこは、「存在するように見えている像はコンピュータでの画像のようなものでしかないし、会話もtwitterfacebookでの書き込みを話していると思い込んでいるだけ」などというサイバー空間に近い場所として表現される。

このことは六つ目の地獄である「大叫喚地獄」へ向かった場面で意味を帯びる。ここは「人間関係に対処する」目的でつくられた「地獄」であり、「私」はそこで三人の若い霊と出会うことになるのだが、重要なのは、ここにおいて山野の「セカイ系」観が「亡霊」の口(?)を借りて語られる箇所にある。


基本的に自我の意識はさまざまな経験や知識や見
聞の受容によって、欲望とか、嫌悪とか、羞恥と
か、執着といったさまざまなコンプレックス、つ
まり複合体を構築していくことで発達すると考え
られています。昭和一桁とか団塊世代は激しい競
争社会に晒されてきましたので、そうしたコンプ
レックス系の自我が強固に居すわっていて、前世
への執着も強いようです。ところが70年代以降に
生まれたコンピュータ世代の人々には社会とか他
人への強い関与を避ける傾向があって、経験的に
得たものも、知識として得たものも、バーチャル
世界での見聞も同じように取り込んでいくので、
並列的になってコンプレックスが構築されにく
い。オタク人間とか、セカイ系といわれる自我の
あり方ですね。そうした人の意識はもともとこの
地獄世界にかなり近く、それだけ馴染みやすいと
いえるでしょう。

山野浩一「地獄八景」 大森望編『NOVA10』河出文庫、二〇一三年 所収)


 山野の言う「コンプレックス系」の人間とは、まさに彼自身とその周りにいた「政治の季節」を経験した人々にほかならず、彼らは強固に「社会」と結びついていた。他方で、それと対比される「セカイ系」の人間はその意識が薄く、過剰に並列化された世界を生きている。東浩紀はこのポストモダン下の状況において出現する「オタク人間」のあり方を「動物化」と呼称し、そこで見られる物語ジャンルの性質を「セカイ系」と言った(注13)。

 また山野は、自身のブログ上でも「セカイ系」について次のように言及している。


セカイ系というとオタク人間という卑俗なとらえ
方が一般的だが、確かにこの言葉そのものは今の
ところ卑俗なものとしてしか流通していない。だ
が、それをいえば、セカイ系と対位するコンプレ
ックスという言葉も同じように卑俗なものとして
扱われ、実際に卑俗な面が大きい。セカイ系には
社会が存在しないといわれるが、社会というもの
は家族、近所、職場や学校といった遠近法で形成
されるもので、確かにそれらとの関係はコンプレ
ックスに根付くものだろう。セカイ系ではそうし
たコンプレックス型の人間関係→社会が存在せず
いきなりセカイという広がりとの関係にエゴが対
面する。それがオタク人間といえばそうではある
が、オタクそのものは発達障害とか、パラノイア
としてコンプレックス型人間にもあり、むしろそ
れがコンプレックスと結びつくことで社会問題と
なる。セカイ系ではそれがものの見方として自己
を形成するので、むしろ自己の存在性そのものが
問題となり、「ゴースト・オブ・ユートピア
(引用者注:樺山三英の小説)でも円城塔作品で
も希薄な私が問題となってしまう。

山野浩一「ゴースト・オブ・ユートピア」、『山野浩一WORKS』2012年7月5日)


 ここでも、「コンプッレックス系」と対比されるかたちで「セカイ系」が定位されているが、先ほど挙げた東による「想像界」「象徴界」「現実界」の対応は、この山野の言葉でパラフレーズすることができるだろう。すなわち、〈象徴界=コンプレックス〉が喪われた〈想像界=エゴ〉が〈現実界=セカイ〉に対峙するといった具合だ。

 ところで、「セカイ系」は「社会がない」という意味で問題であったが、山野からすれば、それはむしろ「家族、近所、職場や学校」による「コンプレックス」から解放されたものとして肯定的に読み替えられている。ここには山野の「セカイ系」観が端的に表れているが、これはおそらく、彼の「内宇宙」観とも深く関わっている。山野は「内宇宙の構造」のなかで、「内宇宙は外宇宙と対立するものではない」、「驚異はいわば内宇宙と外宇宙との対照によって生じる」と、前掲したバラードの「内宇宙」の定義を認めながら、次のように書いている。


SFの内宇宙は原則的に日常的な意識に忠実なも
のではなく、むしろ積極的に外宇宙に対応して内
宇宙そのものを創造していこうとするものであ
る。ここで日常的というのは必ずしも本質的な現
代人の日常感覚ではなく、旧来の小説の多くに扱
われてきた人間関係や社会と人間という対位によ
ってとらえられてきたもので、むしろ本当の日常
感覚はもっとSF的な現代性と狂気を持っているも
のと考えるべきである。従ってここで創造といっ
たものも探求や発見というのが正しいのではない
かと思う。現代人の意識はもっとゆがんだ偏執的
なものであるはずだし、未来にはもっとそういう
ものになっていくだろう。

山野浩一「内宇宙の構造」 『カイエ 一九七八年一二月号』冬樹社 所収)


 つまり、山野の「内宇宙」は対象への単なる静観を越えて、アクティブにそれに働きかけることで自己そのものまで変えてしまうような循環的モチーフがあった。そして、その循環は平板な〈社会=象徴界〉に拘束されるものではなく、「狂気」を伴った〈セカイ=現実界〉との接触によって駆動される。ここでは東の押井守論で確認した「リアリティの崩壊」が、その「崩壊」の手前で自身の「内宇宙」を「発見」するといったプロセスが描かれているだろう。山野浩一が「セカイ系」に「発見」したものは、三十年以上前に彼がイメージしていた「内宇宙の構造」にほかならなかった。こうして「内宇宙」は「セカイ」と出逢うことになる。

 山野が提出したこのイメージを裏付けるように、〈内宇宙‐セカイ〉が再構築される創造性は、当のバラードが後に展開していくことになる。「内宇宙の構造」の翌年に発表された『夢幻会社』からバラードは、山野の評言を借りれば、「第一期の作品群のような無意識による心象風景としてではなく、あくまでもフィジカルな世界に展開され、識域下で形成された強力な観念によって現実世界が急変していく」(注14)物語を描くことになる。その変化はまた、こうも言い表された。「これまで内意識の奥底へ沈潜していくという、精神病理学的なイマジネーションが、現実を越えて上昇していく壮大なイマジネーションの飛翔に転化した」(注15)と。

 実は、前述した岡和田晃による「殺人者の空」の読解でも、作中の最後に「ロケットが飛ぶ」という縦のレイヤーを出していたことに注意を促していたのだが(注16)、私たちはここから山野が「セカイ系の問題」に対してとった態度こそ見なければならない。山野浩一にとって「セカイ系の問題」、すなわち「革命の不可能性」と「ループ」の問題は、「セカイ」へ「飛翔」することで変革される。いや、正しく言い直すならば、変革されうるという意志をもちながら「飛翔」するのだ。


5


 私たちはここである作品を想起したい誘惑に駆られるだろう。「美少女ゲームの臨界点」と名指されたそれは、二〇〇〇年にKeyが発表した『AIR』というゲームである。三部構成からなるその作品は、神尾観鈴霧島佳乃遠野美凪という三人の女性キャラクターの「攻略」を順に進めていくことになるのだが、二部以降はほとんど観鈴を中心に物語が展開していく。ここで『AIR』のストーリーを仔細に追うつもりはない。その代わりに、私たちは佐藤心の『AIR』論である、「オートマティズムが機能する2 すべての生を祝福する『AIR』」から、本論とこの作品の関係を考えてみたい。

第一部の観鈴シナリオにおいて主人公(プレイヤー)は、「「もうひとりのわたし」が「空にいる」という「悲しい夢」」――佐藤の言う「内閉世界」――に苦しめられている彼女をその身の消滅をもって救うことになる。が、その時点では「夢」の全容すらほとんど判らないまま終わってしまう。第二部以降、その秘密が徐々に明らかになっていくのだが、佐藤によると、その「内閉世界」はそれぞれ時間と空間の二つの軸に「開かれていく」という。

まず、第二部において開示されるのは「過去」である。この章では第一部から千年前の物語が描かれ、そこでは「翼人」という一族の末裔である女の子が登場する。「翼人」の種は忌み嫌われる存在として扱われており、その女の子も最終的に、呪詛を浴びせられた末に命を落としてしまう。とはいえ、その精神すら絶えたわけではなかった。「翼人」は自身の「記憶」を後の子孫に承継する能力をもっていたからだ。しかし、それは同時に死んだ女の子の呪いをも引き受けることを意味する。そして、その血を受け継いだのがほかならぬ観鈴であり、彼女の見る「夢」はここに起因していた。以上が第二部で明かされる「過去」の概要である。

第三部で『AIR』の舞台は現代へ帰ってくるのだが、ここでなぜか視点キャラは「カラス」に転移してしまい、みるみる心身が弱っていく観鈴と彼女を扶助する母親代わりの晴子が本物の「家族」になっていく過程、そして最後に待ち受ける観鈴の死を、無抵抗にただ傍観するだけの存在となる。では、ここにおいて開示されるもの、「開かれる空間」とはいったい何なのか。


ところで観鈴の「内閉世界」を外に開いていたも
うひとつのレベルとはなにか。「AIR」編(引用者
注:第三部)にたどりつくことで私たちはそのレ
ベルをようやく理解することができる。観鈴
「内閉世界」を開いていたのは「空」である。
AIR』/「AIR」のタイトル名、視点キャラが
「そら」と呼ばれる烏であることは、おそらくこ
れと無関係ではない。「空」とは、端的にいっ
て、外部である(僕らの手は届かない)にもかか
わらず内部にある(僕らを閉ざしている)ことの
表象だ。その意味で、「AIR」編が執拗に描写し
た、地上に堕落した「そら」が、ふたたび空へと
羽ばたくまでの一部始終は重要だといえる。

佐藤心「オートマティズムは機能する2 すべての生を祝福する『AIR』」 東浩紀編『美少女ゲームの臨界点波状言論、二〇〇四年 所収)


ここまでの論を追った私たちならば、ここで言う「空」に「内宇宙」、そして「セカイ」の影を見出すことも難しくないはずだ。佐藤は、「そら」は単なる傍観者である一方で、「観鈴の幸せな「記憶」」と「プレイヤーのメタ的な「記憶」」を携えて「空」に向かうと言い、こう続ける。「飛翔する「そら」が伝えるのは、そのような「記憶」が断たれずに、継がれていくという未来のイメージではなかったか」。とすれば、『AIR』の「飛翔」は山野浩一の描くそれと同じく、どう足掻いてもバッドエンドを迎えてしまう閉塞した悲劇性から、「空」へ上昇することで祈りをこめつつ突破されるだろう。そして、私は山野の読解を通してまた「ゼロ年代」へと連れ戻されることになる。


最後に、もう一度だけ自分語りを許してほしい。九七年生まれの私が「ゼロ年代」に出逢い、初めて本当に好きだと思えるものを見つけ、そこでしか繋がれなかった人々とも出会い、しかし年を重ねるにつれ興味が様々に分かれてから、その感情もすっかり過去のものになってしまったと気付いた。

だが、本論の最後、私は「ゼロ年代」に帰ってきてしまった。ここに私と「ゼロ年代」との間のどうしようもない「宿命」があるのならば、やはり私はこの「宿命」からまず引き受けなければならない。「ゼロ年代」は私にとって「青春」そのものだった。では、「青春」は大人になって忘却されるものなのだろうか。いや、事実私のすべてはこの「青春」の経験から始まっている。裏返せば、「青春」としての「ゼロ年代」という原点がなければ、私はこの先歩いていくことはできない。だから私は何かあればそこへ帰り、その最初の一歩――本当に好きだったもの――を確認するだろう。私にとって「ゼロ年代」とは、そのような「記憶」として常にあり続ける。


最終章、「空」へ向けて飛びたった「そら」はこ
う発する――「帰ろう、この星の大地に」。羽ばた
き、舞いあがった「そら」は、いまや幸せと悲し
みのすべてを目撃し、作品世界を生きた、プレイ
ヤーの「記憶」の塊だとさえいえる。そして「そ
ら」はそこに帰る。「この星の記憶」を無限にた
くわえ、また新たな生命へとそれを伝え、育む、
私たちの母なる「空」に。
(同上)



(1)前島賢セカイ系とは何か』星海社文庫、二〇一四年 
(2)東浩紀動物化するポストモダン講談社現代新書、二〇〇一年 
(3)東浩紀『文学環境論集 東浩紀コレクションL』講談社BOX、二〇〇七年 
(4)二〇〇八年三月から翌年九月までおこなわれた、東浩紀講談社BOXが主催した批評家選考プログラム。優勝者は村上裕一
(5)「山野浩一自筆年譜」より
(6)国領昭彦・川又千秋増田まもる巽孝之小谷真理山野浩一追悼座談会」 『SFファンジン 二〇一八年七月号』全日本中高年SFターミナル
(7)大森望の『虐殺器官』の「解説」より。伊藤計劃虐殺器官』二〇一〇年、ハヤカワSF文庫JA 
(8)前島賢「ボンクラ青春SFとしての『虐殺器官』~以後とか以前とか最初に言い出したのは誰なのかしら?~」 『SFマガジン 二〇一五年一〇月号』早川書房 所収
(9)岡和田晃「「世界内戦」下――「伊藤計劃以後」のSFに何ができるか――仁木稔樺山三英、宮内悠介、岡田剛長谷敏司、八杉将司、山野浩一を貫く軸」 同『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷――SF・幻想文学・ゲーム論集』アトリエサード、二〇一七年 所収 
(10)岡和田晃ニューウェーヴは終わらない――山野浩一を追悼する」 『SFマガジン 二〇一七年一〇月号』早川書房 所収 
(11)ジュディス・メリル『SFに何ができるか』浅倉久志訳 一九七二年、晶文社 
(12)山野浩一『殺人者の空』二〇一一年、創元SF文庫 
(13)『動物化するポストモダン』参照
(14)山野浩一「内宇宙のブラックホールへ」 『ミステリーズ! 二〇〇九年六月号』東京創元社 
(15)J・G・バラード『夢幻会社』増田まもる訳 一九八一年、サンリオSF文庫 
(16)「思い返せば、個人と社会をつなぐ中間領域を消去する「セカイ系」では、「セカイ=世界」はあくまでも「観念の世界」にとどまるものだった。ところが『殺人者の空』では観念に亀裂が生じている。ここで核ミサイルのイメージが提出されたことを忘れてはならない。」(前掲)

日本のディレイニー受容

久しぶりのブログ更新です。

大学の課題でディレイニーについて文章書いたのですが、せっかくなのでここに掲載します。日本のディレイニー受容についてまとめました。


 
 本稿では、アメリカのSF作家、サミュエル・R・ディレイニーの作品の、日本における受容史を確認する。まず、ディレイニーとはどのような作家なのか。彼の来歴を簡単に紹介したい。

 ディレイニーは、1942年にニューヨークで生まれた。20歳のとき(実は商業誌への記事執筆の経験はあったのだが)、デビュー作である『アブタ-の宝石』(1962年)を上梓してから、わずか5年で7本の長編を世に送り出したうえに、『バベル‐17』(1966年)では、翌年のネビュラ賞長編部門を受賞した。当時の業界は、ディレイニーを指して「早熟の天才」と称したらしいが、その理由は、こうした履歴を見れば判然とするだろう。
30代を迎えたときに書かれた超大作、『ダールグレン』(1975年)は、SF小説としては類のないほどのベストセラーとなるが、これを機に彼は、SFから写実主義的な現代小説の執筆に注力していく。また、このころから構造主義言語論に影響を受けた評論を多数執筆し、講師として大学へ迎え入れられるなど、対外的な活動も多くなっていった。
そして、40代、50代になると、大学の教授として教鞭を執るかたわらで、みずからもその当事者として、性的マイノリティの人々を主題とした小説や評論、ルポルタージュなどを発表した。2013年には、アメリカSF&ファンタジー作家協会から、グランドマスターの称号を受けるなど、現在では、業界からある種の「レジェンド」的存在と見なされている。以上が、ディレイニーのこれまでの歩みである。

ここで指摘しておきたいことは、ディレイニーは、いわゆる‘‘ニューウェーブSF‘‘というSFジャンルに属する作家だという事実である。議論の煩雑を避けるため、その語の詳しい説明は控えるが、さしあたりここでは、「1960年代に英米で起きたSFの変革運動とそれに呼応した作品群。おもに文章と人物描写の洗練化をはかった」という理解でかまわない。ディレイニーが、ほかのSF作家と比べて圧倒的に抜きん出ていたのは、なによりも文章への並々ならぬこだわりだった。彼は自身の評論で、次のように直截に語る。


ひどい文体によっていちばん傷つくのは、訓練不足の素朴な読者なのだ。悪文は、語から語へのイメージを修正していくのに必要以上の精神エネルギーを使い、修正そのものも実りは少ない。だからこそ、それは悪文なのだ。(サミュエル・R・ディレイニー「約5750語」 『SFマガジン1996年8月号』p.19)


 他方で、ディレイニーのSFは、「娯楽性」という点もしっかりと意識されている。これが、同時代のSF作家のなかにおいて特異さを放っているゆえんだろう。ニューウェーブSFの作品群は、その文学的表現の追求のために、ある種のストーリー展開がおろそかになってしまう傾向があった。興味深いことに、2017年にも新作が公開された映画、『スター・ウォーズ』へのSF業界からの評価が、その違いを明確に示す。このシリーズの第一作目に対して、例えば、ニューウェーブSF運動を牽引した作家であるJ・G・バラードは、「まったく真剣さのない最初のSF映画だ」とこき下ろし、そのほかの作家も、ほとんど断罪するようにして否定的な態度を見せている。ディレイニーの場合は、むしろ、‘‘Great New S.F.Film‘‘ だとして賞賛を送り、「これまでに観てきた二時間の映画のうちでは、いちばん短く感じられる作品だった」と述べている。バラードとディレイニーは、英米間のニューウェーブSFにおけるそれぞれの代表的存在だが、両者のSF観の相違はここをもって明らかだろう。
デビューから一貫して、ディレイニーは、「ヒロイック・ファンタジー」あるいは「スペース・オペラ」を描き続けてきたのであり、その理由は、純粋に、彼が「冒険小説好き」だからにほかならない。さらに、評論家の宮城博は、邦訳された『アブタ-の宝石』の解説において、ディレイニーと、19世紀末のフランスの耽美主義作家との影響関係に着目している。実際に、ディレイニーが、ランボーコクトーユイスマンスといった作家を耽読していたという事実を挙げ、彼らの文学のキッチュなモチーフを、SFを書く際にも意識していたのではないか、と宮城は指摘する。この主張は、端的に言って、ひじょうに的確だと言わざるをえない。ディレイニー自身もこう述べている。


SFがめざすヴィジョンは、詩のヴィジョンとたいへん近いようにわたしには思われる。とくに十九世紀象徴派の詩人たちとの近親性は大きい。作品がどれほどきびしい規律のもとに書かれていようと、‘‘非現実‘‘の世界に移行するためには、神秘主義と触れ合う必要がある(同上p.21)


 このあとにディレイニーは、「象徴派の詩人たちと現代アメリカ思弁小説との関連をもっと徹底的に調べたものをわたしは読みたい」と言い添える。宮城がこのテクストを読んでいたかどうかはわからないが、訳出されたのがずっと後のことと考えると、先見的な議論を展開していたと見るべきだろう。

 話がさまざまな方向へ行ってしまったが、これでディレイニーの作家的立場は了解してもらえたはずだ。本稿の目的は、日本のディレイニー受容についてであった。「ディレイニー」の文字は、いつ日本へ輸入されたのだろうか。以降、その最初期から検討したい。

 ここに、いささかユニークなテクストがある。SF翻訳家の伊藤典夫によるエッセイ、「ディレーニイディレイニー」である。ここで書かれているように、実は、「Delany」の日本語表記には、出版社によって微妙なバラつきが生じていた。早川書房の場合は、「ディレーニイ」または「ディレイニー」と表記していたり、サンリオSF文庫を読むと、今度は「ディレーニ」などと訳されており、統一がはかられることはなかった。しかし、現在では、「Delany」は、いま私が記しているように「ディレイニー」の表記に固定したといってよいだろう。『ドリフトグラス』は、日本でもっとも新しく出たディレイニーの邦訳書だが、そこには「サミュエル・R・ディレイニー」の著者名が印字されている。考えてみれば、この帰着は自然なことであったと言うほかにない。なぜなら、初の「Delany」の日本語訳は、ほかならぬ「ディレイニー」であったのだから。そして、そう訳すことを決めた人物こそ、まさにそのエッセイを書いている伊藤典夫本人であった。


 わが国でディレイニーの名前が最初に活字になったのは、一九六八年五月号の本誌〈SFスキャナー〉のページである。当時これは最新のSF情報を伝えるぼくの連載コラムだった。ぼくはその号でネビュラ賞のニュースを伝え、彼の『バベル‐17』の粗筋紹介をしているのだが、そのときの表記がすでに「ディレイニー」!(伊藤典夫ディレーニイディレイニー」 『SFマガジン1996年8月号』p.33)


 「Delany」は、東洋へ伝来されたときから「ディレイニー」であり、その後「ディレーニイ」、「ディレーニ」という変遷を経ながらもまた「ディレイニー」へとたどり着いたのである。ここで、ひとりの作家の命名の歴史について振り返ってみたが、無論、ここで大事なのは、1968年こそ、ディレイニー日本上陸の年だということである。そして、2年後の1970年には、ハヤカワ・SF・シリーズから『バベル‐17』の邦訳が出版され、SF作家サミュエル・R・ディレイニーの全貌が明らかとなる。

 ところで、この当時のSF業界と日本国内全体の空気は、どのようなものだっただろうか。1964年にはオリンピックも経験したこの国は、まさに高度成長の只中におり、ディレイニー初邦訳と同年に開かれた大阪万博では、「進歩と調和」をスローガンに、SF作家の小松左京もプロデューサーにむかえられた。私個人の感覚でいえば、この時代は、「SFと社会が協調していた時代」と呼ぶことができるのはないか、と考える。つまり、それは、科学技術の進化と並走して国家全体の豊かさも向上するはずだ、という確信に基付いた動きだったのである。
 しかしながら、「SF」と「社会」のこの癒着は、むしろSF的想像力の幅を狭くしてしまう弊害があったことを指摘しておかなければならない。日本においてニューウェーブSF運動を推進した作家、山野浩一が、以下のように述べている。


 楽しみにしていた月へ降りた十年前ぐらいにみんなが考えていたことは、月へ行けばひじょうにすばらしいことがあるんじゃないか、具体的にはそう予想しないかもしれないけれど精神的にはすごく大きな夢が広がるんじゃないかとおもっていたら、到達したとたんにありとあらゆる夢がすべて終わってしまった。(山野浩一荒俣宏松岡正剛『SFと気楽』p.20)

 
世界が目指していた「月」は、いわば「坂の上の雲」であり、たどり着いた達成感のあとに残るのは、単なる虚しさだけだった。「SF」の夢が、「社会」によって実現したとき、つぎに噴出するのは、あらたなる未知との出遭いへの夢想か、科学発展の功罪に対する批判的まなざしのどちらかである。前者は、70年代後半から勃興するハリウッドSF映画ブームにつながり、後者は、ニューウェーブSFの問題を日本にもたらす契機となった。山野浩一は、「シリアスに現代という科学技術の世界を考え直」すようにわれわれに訴えたが、彼によって創刊されたレーベル、サンリオSF文庫(創刊1979年~廃刊1987年)は、そのような理念に則ったSF小説をつぎつぎと日本へ紹介した。そして、ディレイニーも、この流れから人口に膾炙していくのである。こうした土壌が整うまでには、初紹介からおよそ10年の年月が必要だった。翻訳家の米村秀雄は、「『バベル‐17』しか訳されていない状況では(…)評価するにしても充分なものにはなりえない」と述べていたが、その真意を把捉するには、まず以上の背景を認識する必要があるだろう。

 サンリオSF文庫から発刊されたディレイニーの小説は、『時は準宝石の螺旋のように』(1979年)、『エンパイア・スター』(1980年)、『アブタ-の宝石』(1980年)の3タイトルである。それぞれ、著者の短編集、代表作、デビュー作が刊行されたことによって、ディレイニーの作家的多面性が理解されはじめたといえるだろう。ただ、作品が多く訳された事実よりも、その多面性を受け止める態勢が整ったということを重要視するべきである。この時代から、若手のSF翻訳家が多く台頭してきた点を見逃してはならない。『サンリオSF文庫総解説』所収の、山野浩一と、翻訳家/書評家の大森望との対談では、そのことについて、1970年代のSF翻訳界を「大空白時代」だとしたうえで、つぎのように語られている。


   大(引用者注:大森望)逆に、翻訳が出ないおかげで、しかたなく原書で読みはじめて、SFマニアがたくさん生まれた。
   山(引用者注:山野浩一)で、その中から何人かが、翻訳家や評論家になり、いろんな形で育っていることも事実なんですよね。
                       (『サンリオSF文庫総解説』p.17)


この話は、SF業界における「ファンダム」の形成とも深く関わっているが、思い起こせば、サンリオSF文庫の『エンパイア・スター』も、訳者の米村秀雄が、自身の同人誌上で訳出したものをあらためて書籍化したものだった。そのような「ファン活動」から、ディレイニーひいてはニューウェーブSF作品全体の、日本における受容は支えられたのである。
『時は準宝石の螺旋のように』の、米村秀雄の解説は、ディレイニーの経歴からその作家的特性までを詳らかにしたテクストであり、作風の特徴から、第一期、第二期、第三期と時期的に区分けしたうえで、それぞれの変遷の内実にせまっている。また、『アブタ-の宝石』の解説では、宮城博が、処女作であるそれには、のちの作品の要素がすべてあらわれているとして、その要素を分解して説明している。それらを総合して図解すると以下のように表せる(未訳の作品は原文で表記)。


第1期 『アブタ-の宝石』~『The Fall of the Towers』3部作(初期長編)イメージの鮮烈さと緻密な構成         
                                   
第2期 『エンパイア・スター』~『ノヴァ』(絶頂期)スタイルの確立⇒①表現力の向上 ②作品構造の複雑化 ③テーマの多様化 ④結末の不完全性

第3期『ダールグレン』~『Triton』(大作)文章の写実化

          ↑↑
[a] テーマ (1)探求の物語 (2)善悪の相対性 (3)精神の成長
[b]スタイル (1)荒唐無稽な冒険譚 (2)隠喩的文体 (3)魅力的な人物


 こうした努力によって、それまで伝えられていなかったディレイニーの魅力が、具体的な解説を通して理解されるようになった。それから、1980年代に入ると、ハヤカワ文庫から、最高傑作との誉れも高い『ノヴァ』が邦訳された(1988年)。また、巽孝之の『サイバーパンク・アメリカ』では、アメリカ留学中の巽が、コーネル大学にておこなわれたディレイニーの集中講義を受講したときのエピソードについて、対談も交えて書かれている。そこでは、当時のSF的趨勢だった「サイバーパンク」と、ディレイニーとの関係が丹念に読み解かれ、彼のあらたな〈像〉を発見するものだった。
1990年代では、『アインシュタイン交点』が、原著からおよそ30年の時を経て邦訳された(1996年)と同時に『SFマガジン』上ではじめて特集が組まれ、ふたたびスポットライトが当たることになる。そのときの『SFマガジン』は、「サミュエル・R・ディレイニー」と「新世紀エヴァンゲリオン」の二大特集号だった。そのなかのエッセイで、大森望は、『エンパイア・スター』のラストと「エヴァンゲリオン」の最終話の類縁性について(冗談半分で)述べているが、ここまで歴史を追えばわかるように、「外宇宙 outer space」の作品を描きながら、深層では「内宇宙 inner space」の世界を構築し、「電脳空間 cyber space」の萌芽さえものぞかせていたディレイニーが、ここにきてもう一度「内宇宙 inner space」の作家として読まれるといった、ある種パラレルな読解の系譜が編み出される。気付けば、ディレイニーは、初紹介の1970年代から、つねに新しい「読み」の可能性を提示し続ける作家だった。ここで、彼の代名詞である「マルチプレックス」という語を想起することはまったく正しい。時代が進むたびに、その読解可能性はまた拡がっていくにちがいないのだ。
 
 最後に現状について触れておきたい。2010年代には、メガトン級の分量を誇る問題作、『ダールグレン』の邦訳が出版された(2011年)。災害によって荒廃した都市を舞台とするこの小説と、同年に発生した東日本大震災との関係を指摘する向きもあるだろうが、そのような議論をおいておくにしても、ただSFにとどまらない作風の幅を示す本書をもって、ディレイニーは再三、業界の話題をさらう存在となった。2014年には、ディレイニーの全短編を網羅したコレクション『ドリフトグラス』も刊行され、サンリオSF文庫絶版にともない、多くの短編を読むことが困難だった状況も改善されたことで、現代の読者をも獲得できるような地平がひらかれた。
 さきに主張したように、ディレイニーは、時代の変遷とともにその読み方も変わるような、まさに「マルチプレックス」な作家である。2010年代も終わろうとするいま、あらたな ‘‘plex‘‘ が要請されている。『エンパイア・スター』のなかで、〈全知の観察者〉ジュエルはこう言っていた。「あなたがたが知覚したものをどう整理するか、ある時点から別の時点へどのように旅をするのか、その問題はあなたがたに残しておくことにする」(『エンパイア・スター』p.154)。この台詞は、ディレイニーから読者へ与えられた、ひとつの挑戦状ではないか。だとすれば、私はこれからもディレイニーを読み続けていかなければならないだろう。

 
 参考文献

サミュエル・R・ディレーニ『時は準宝石の螺旋のように』伊藤典夫浅倉久志他訳、サンリオSF文庫、1979年
サミュエル・R・ディレーニ『エンパイア・スター』米村秀雄訳、サンリオSF文庫、1980年
サミュエル・R・ディレーニ『アブタ-の宝石』下浦康邦訳、サンリオSF文庫、1980年
サミュエル・R・ディレイニー『バベル‐17』岡部宏之訳、ハヤカワ文庫SF、1977年
サミュエル・R・ディレイニーアインシュタイン交点』伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫SF、1996年
サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』【新装版】伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫SF、2005年
サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』大久保譲訳、国書刊行会、2011年
サミュエル・R・ディレイニー『ドリフトグラス』浅倉久志伊藤典夫、小野田和子、酒井昭伸深町眞理子訳、国書刊行会、2014年

山野浩一荒俣宏松岡正剛『SFと気楽』工作舎、1979年
巽孝之サイバーパンク・アメリカ』勁草書房、1988年
牧眞司大森望(編)『サンリオSF文庫総解説』本の雑誌社、2014年

SFマガジン 1996年8月号』早川書房
SFマガジン 1997年8月号』早川書房

サンリオSF文庫目録 1980年夏」株式会社サンリオ




 

ディレイニーとセカイ系の話

深夜3時くらいに、僕が世界で一番好きな小説であるところの、サミュエル・R・ディレイニーの『エンパイア・スター』を再々々々々読 (もっと読んでるかも) して心身ともにエモくなったのでそのままの勢いで『AIR』原作のラストシーンを観賞するというオタク臭いシークエンスをキメました。
久々にこういうムーヴをして思ったのは、「やっぱり自分の好きなものってなにかしら共通したアウラがあるんだな」ということです。ディレイニー麻枝准ってなにも繋がりがないように見えて、もちろん実際そうではあるんだけど、底ではたがいに呼応しているような気がするのです。分かる人には分かるんじゃないかと期待したい。
そんなことをぼんやり考えていたら、前にディレイニーと「セカイ系」について書いた文章の存在を思い出したので、ここに載せます。印象批評でけっこう適当なこと書いてますが、言いたいことが伝われば幸いです。





“It darkles,(tinct,tint)all this our funanimal world.”


この神話は、ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク』の引用から始まる。訳者の伊藤典夫氏が補注で記しているように、表層的な意味とそこに隠された別の意味の二層構造を成しているこの一文は、巧妙に織り込まれた数々のメタファーによって多重的に構築された本作全体を縮約したかのような印象を与える。ディレイニー自身の言葉を借りれば、『アインシュタイン交点』をはじめとする彼の生み出す物語は、無限の奥行きがある巨大な「建築物」なのだ。

本作は遠未来の地球を舞台としており、主人公である青年ロービーは、恋人を殺した人物を探求する旅のなかで様々な仲間との出会いを通して成長していく、という一見するときわめて通俗的なファンタジーにしか思えない内容であるが、その深奥には作者の経歴を反映した社会的な暗示や「メタSF」としての機能など一読ではとても掴みきれないような無数の読解可能性を有している。そしてこれは彼の多くの小説に共通する特徴だ。「考察」とは特に「セカイ系」と呼ばれるジャンルに属する作品群において活発に行われていた現象だが、『アインシュタイン交点』ひいてはディレイニーの小説全般はまさにそうした考察を誘引するような構造を備えている。

もうひとつ『アインシュタイン交点』の「セカイ性」を考えるうえで重要なのは、途中で挿入される「作者の日記」と題したエピグラフである。

“結末が有効であるためには、曖昧でなくてはならない。” (『アインシュタイン交点』p.212)

これを読んで筆者が想起したのは、高瀬司氏が編集を務めるカルチャー誌『Merca β03』(2016) 所収の座談会「セカイの記憶を継いでいくこと」上における、坂上秋成氏の発言だ。アニメ版『AIR』をテーマとしたこの討論で、坂上は「セカイ系」というタームについて、「論者によって使い方が異なり過ぎているので (…) あまり自分で使用したくない」と前置きしつつ、つぎのように述べている。


“(セカイ系について)自分なりに最小限の定義をするとすれば、「物語に巨大な余白を作る作品」ということになると思います。意図的に説明不足になっている箇所を作ることで、論理や設定よりも感情を優先させてしまう技法と言ってもいい。(…) 「とにかくそういうものなんだ」と消費者に納得させる構造を持っているものをセカイ系と言うべきかなと、最近は思っています。” (『Mercaβ03』p.31。括弧は引用者注)


坂上のこうした「セカイ系観」には自分も同意したいのだが、この定義は、先述したディレイニーの作品に対する考え方と近いものを感じないだろうか。「余白を作る」すなわち「曖昧にする」ことでかえって魅力を引き出すという方法。実際『アインシュタイン交点』やその後の『ダールグレン』などでは舞台設定やストーリー展開の注釈はほとんどない 。『ほしのこえ』や『最終兵器彼女』において社会描写が欠落していたり、坂上の言うように「『イリヤの空、UFOの夏』で、伊里野加奈がブラック・マンタに乗った過程が説明されない」のと同じように。

上記のことを踏まえると、多観的な作品設計といい、ディレイニーセカイ系的感覚を早くも先取りしていた作家だといえるかもしれない。一般的に彼はSF作家であるとともに黒人/ゲイ作家であると認識されているが、セカイ系との近似を確かめることによって、今まで言及されてこなかった新たな一面が我々の前に浮かび上がってくるのではないか。

ディレイニーセカイ系の隠れた先駆者である。その壮麗な建物を仔細に点検することによって、米国ニューウェーブSFと国産セカイ系の想像力が交錯する奇妙な「交点」を見出だすことができるだろう。


※なお、この文章は2年前に僕が参加した同人誌『麻枝准トリビュート』の有志メンバーによって運営されるブログ「sekai」( http://the-sekai.tumblr.com/) から転載しました (一部修正) 。

AIR メモリアルエディション 全年齢対象版

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アインシュタイン交点 (ハヤカワ文庫SF)

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国内ニューウェーブSFの父

 

 つい一週間前にこんなツイートをしたばかりだった。本人のブログ等で現状は把握できていたものの、まさかすぐにそのときが来るとは思っていなかったので、一瞬言葉を失ってしまった。本日、国内ニューウェーブSFの第一人者、山野浩一氏が亡くなられたのである。

 

 2011年に、創元SF文庫から、『鳥はいまどこを飛ぶか』と『殺人者の空』という二冊の山野浩一傑作選が刊行されたが、僕はそれらをちょうど今年の一月、成人式が終わった直後に丸善本店で買った。恥ずかしながら、それまで小説家としての氏の活動はまるでチェックしていなかったのだが、「多元世界の詩情」「内宇宙の原野へ」という帯文に触発され、読まなければならないと思い立つと、前日に都内の大型書店すべての在庫を確認した。二冊ともすでに絶版だったにも関わらず(電子版ではあったが、紙で読みたかった)、奇跡的に丸善にはそれぞれ在庫微少ながら収蔵してあった。スーツのまま書店に直行してSFの棚を見たが、本はなかった。そんなはずはないと慌てて店員に聞くと、「棚にないならないですね~」と言われながら再度確認してもらい、「あるはずなんですけどあるはずなんですけど……」と訴えて念のため下の引き出しを開けてもらうと……一冊ずつあった。店員さんに怪訝な顔をされながらも新品本を手に入れることができ、結果として、二十代になって初めて購入した本が山野さんの小説となった。

 

 僕は山野さんの存在を、『季刊NW‐SF』(69年に創刊された、国内におけるニューウェーブSFの先導的文芸雑誌)や、サンリオSF文庫の名前とともに知った。そのどちらにも中核的存在を担っていた山野さんは、海外の前衛的な文学やSF小説の紹介に多大なる心血を注ぎ、おそらく山野さんがいなければ、フィリップ・K・ディックサミュエル・R・ディレイニーに耽溺しているいまの自分はいなかったように思う。また、『季刊NW‐SF』の巻頭言に書かれている山野さんの時代/批評意識も、非常にアジテートされるものとして印象に残っている。山野浩一はSFのみならず、日本人作家のなかでもっとも重要な人物の一人であることは間違いないだろう。少なくとも自分はそう思っている。

 

 この件で想起したのは、山形浩生氏の「1997年」と題されたブログ記事である (http://cruel.org/wired/yamagata403.html) 。この記事では、アレン・ギンズバーグウィリアム・バロウズキャシー・アッカー、そしてジュディス・メリルの死について語られたが、1997年はニューウェーブSF、あるいはサンリオSF文庫的な精神がひとつの終わりを迎えた時代だと、個人的には思う。それから20年後に、またしても一人の「象徴」がいなくなったことには、なんらかの時代的符合を見たい気持ちを引き起こすが、同時に今年はニューウェーブSF再考の契機を生んでいるという事実もある。J・G・バラードの全集や、現在もっとも旺盛にニューウェーブSF批評を展開している評論家、岡和田晃氏の新刊などが続々と出ている。そして近刊では、なにより荒巻義雄氏の『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』。本人曰く「遺書」として書かれたそれは、彼の論敵であるとともに、国内ニューウェーブSFを共に支えた山野さんの存在抜きには絶対に読めないだろう。2017年は、さまざまな意味でニューウェーブSFの「終わり」と「始まり」を迎える年になるかもしれない。

 

 いろいろと書きたいことを書いてしまったが、大好きな作家が亡くなるという経験は想像以上にショックだった。これから何度もこのようなことは起きるのだろうし、そのたびに今回みたくいろいろと考えてしまうのかなとぼんやり思った。とりあえず、『花と機械とゲシタルト』の復刊をぜひ希望したい。

 

 最後に、山野さんのご冥福をお祈りいたします。

 

 

鳥はいまどこを飛ぶか (山野浩一傑作選?) (創元SF文庫)

鳥はいまどこを飛ぶか (山野浩一傑作選?) (創元SF文庫)

 
もはや宇宙は迷宮の鏡のように

もはや宇宙は迷宮の鏡のように

 

 

花と機械とゲシタルト (NW-SFシリーズ (2))

花と機械とゲシタルト (NW-SFシリーズ (2))

 

 

 

 

 

 

「ニューウェーブSF」を知るための3冊

英SF作家のブライアン・W・オールディスは、SF史を通覧した著書『十億年の宴』のなかで、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』(1818) を世界初のSFと位置づけました。この事実は、来年でSFというジャンルが生まれてから200年目を迎えることを意味します。この間に出てきたSF作品は数知れませんが、テーマや舞台設定の差異によって、SFはさまざまなカテゴリーに分類されているのは今さら言うまでもないでしょう。ハードSF、サイバーパンクスペースオペラワイドスクリーン・バロック等々……。そして、本稿で取り上げる「ニューウェーブ」もまた、そうしたSFの下位ジャンルのひとつです。1960年代に訪れたSFの〈新しい波〉は、科学礼賛的であった従来のSF小説のあり方に異を唱え、結果的に主流文学とSFの橋渡しをする役割を果たしました。「ニューウェーブ」は僅か10年ほどで沈静化していきますが、このような運動は、業界全体を活発にさせるカンフル剤を「黄金時代」を経たSF界に投与した意味においてきわめて重要です。

では、「ニューウェーブSF」とは具体的にどのようなSFを指すのでしょうか。その特徴は、翻訳家の増田まもる氏が運営するサイト「speculative japan」内の記事「SFセミナー2008「specuatlive japan 始動!」聴講記」(著:岡和田晃氏) に簡潔に書かれているので、一部を引用したいと思います。


おおまかに説明すればニューウェーヴ(SF)/スペキュレイティヴ・フィクションとは、狭義には1960年代を中心に起こったSFの変革運動のことを意味する。
例えば、近代文学が個人と世界の間の軋轢を描くことで内側から社会性を描くものだとすれば、従来のSFは、科学というフレームをもって外側から社会のモデルを浮き彫りにするものだった。
SFのテーマとしてよく用いられる「外宇宙」は、いまだ謎に満ちた空間でありながら、我々が生きている現在を相対化するにはまことに都合のよいものである。
しかしながら、「外宇宙」に代表されるフレームのみにこだわりすぎると、それによって囲い込まれる主体そのものに対する考察がおざなりになる場合がある。
世界に囲い込まれる主体が、世界そのものを見詰め返すという観点――それを例えば「内宇宙」と呼ぶとしよう――も、忘れられるべきではない。
いや、ともすれば「外宇宙」以上に「内宇宙」は重要となる。
かような問題意識から、パルプ雑誌の申し子として「ハリウッド的」なアメリカの代名詞ともとられたSFというジャンルを、再定義しようという動きが生まれた。
それがニューウェーヴSF、あるいはスペキュレイティヴ・フィクションの歴史的な出発点である。

http://web.archive.org/web/20140318090240/http://speculativejapan.net/?m=201308


要するに、科学や宇宙などといった外側のきらびやかな装飾に拘りすぎるのではなく、人間の内面や主体性にフォーカスしたSF。これが一般的に「ニューウェーブSF」と呼ばれているものです。ちなみに、ここで「スペキュレイティヴ・フィクション」という言葉が出てきましたが、これは無論「SF=Science Fiction」に相対する「SF=Speculative Fiction 」に他なりません(ニューウェーブSFの代表的作家J・G・バラードは、自身のSFに対するスタンスを記したテキストで「SFは宇宙に背を向けるべきだ」とも主張しています)。思弁性と文学性を追求したSFには、文学的実験や性描写などこれまで縛られていたタブーを破っていく野蛮さとパンク精神を秘めていたものだったといえます。

また、じつはニューウェーブ系の作品が近ごろ再び注目を集めていることも見逃してはなりません。この辺の事情に関しては、書評サイトの「シミルボン」で今年の1月から連載されている藤元登四郎氏のコラムでも触れられています(https://shimirubon.jp/columns/1678100) が、『SFが読みたい! 2017年度版』のベストSF2016海外編1位は、米ニューウェーブSFの旗手ハーラン・エリスンの『死の鳥』が獲り、二年前には国内思弁SFの巨匠、荒巻義雄氏の全集が刊行されたことも記憶に新しいかと思います。ニューウェーブSFは着実に再評価されており、いまそれらの小説を読むことは過去の遺産に思いを馳せることを意味しない、むしろSF界の最新鋭をキャッチする営みとなるはずです。

前置きが長くなってしまいましたが、では数あるニューウェーブSF小説のなかからいったいどれを読めばいいのでしょうか。今回筆者が独断で「ニューウェーブ感」を味わえるだろう3冊をセレクトしたので、これを参考にぜひその波に思いきりダイブしてみてください。なお、〈基本編〉〈応用編〉〈理論編〉の三段階を設けたので、順番に紹介していきます。

〈基本編〉

『ニュー・ワールズ傑作選 No.1』マイケル・ムアコック浅倉久志伊藤典夫訳 (ハヤカワ・SF・シリーズ)

まさにニューウェーブの源泉となった英SF雑誌『ニュー・ワールズ』から一部を抜粋して邦訳した選集。先述したJ・G・バラード、ブライアン・W・オールディス、そしてトマス・M・ディッシュなどニューウェーブの「代表選手」が一同に会しています。本書に入っているバラード「暗殺凶器」は断章から成る非線形の物語であり、本人は〈濃縮小説〉とそれを銘打ちました。また、浅田彰氏はバラードとの対談のなかでそれらの作品群を「ポップ・アート的な現実の断片の羅列」(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』p.150) と呼び、評価しました。バラードの作家人生でもっとも尖ってた時期に書かれた短編のひとつです。
本書のラストを飾る、ディッシュ「リスの檻」にも触れておきます。訳者のひとり伊藤典夫氏が「〈新しい波〉の最高傑作」と絶賛したこの短編は、椅子と机とタイプライターしかない部屋に閉じ込められた1人の男を描くものです。なぜか定期的に送られてくる新聞を頼りに小説や詩を書きはじめ、「小説内小説」と男の懊脳が混じり合う。そして"彼ら" はこう言うでしょう。「ようし、ディッシュ、もう出てもいいぞ」と……。
加えて巻末の伊藤典夫氏による「ニュー・ワールズ小史」も、当時の歴史を概観するためには必読のテキスト。「ニューウェーブSFの典型」はすべてここに収録されています。


〈応用編〉

『新しいSF』ラングドンジョーンズ編 野口幸夫訳 (サンリオSF文庫

新しいSF (1979年) (サンリオSF文庫)

新しいSF (1979年) (サンリオSF文庫)

本書の訳者あとがきにはこんな記述があります。

『新しいSF』は、よき"入門"書とはいえないだろう。これはむしろ、中級ややや上級にかけての、トリッキーな"嵌め手"の範例集と見るべきものだ。

この一文は『新しいSF』に収められている作品の性格をよく表しています。小説、詩、対談とラインナップも豊富な本書は、前掲書をはるかに上回る遊戯性と若干の痛々しさを含んだ15編を掲載。個人的な感想を言えば、ほとんどの作品は理解不能だが、文体芸にせよストーリーにせよ、良い意味でも悪い意味でも「こういうものをニューウェーブというんだな」と妙に納得できる一冊に仕上がっていると思います。とりわけ、ジョン・スラデック「使徒たち--経営の冒険」はヤバい。ウィリアム・バロウズのカットアップをさらに推し進めた、さまざまなパロディを「自ら」作り上げてそれをランダムに配置して読者を幻惑させる、スラデックの言語遊戯の極みを読むことができる傑作です。J・G・バラードジョージ・マクベスの対談「新しいサイエンス・フィクション」は、SFの批評性を暴き出し、バラード自身の自己作品解説にもなっています。この対話が当時BBCで放送されていた事実には驚き。
最初から本書を読むというのは、エロゲでいうといきなり『最果てのイマ』からプレイするようなものですが、それも覚悟さえあれば十分楽しめるかもしれません (保証はできませんが) 。いずれにせよここには「ニューウェーブ感」がぎゅっと濃縮しています。


〈理論編〉

『SFに何ができるか』ジュディス・メリル浅倉久志訳 (晶文社

最後は小説ではなく、SF界きってのアンソロジストジュディス・メリルによるエッセイ集を紹介します。SFの物語造形を「教育的ストーリー」「伝道的ストーリー」「思弁小説・スペキュレイティヴ・フィクション」に分けたメリルは、最後の分野にこそSFの未来があることを主張するとともに、バラード、ディッシュ、ディック、ディレイニー等の作家について論じ、評価しました。ニューウェーブSFを中心に扱った唯一の評論であり、もちろん本書を読むことで上二冊のような小説もよりよく理解することができると思います。

以上3冊を紹介しましたが、ここまで書いてきて判明したのだがなんと全て絶版という……。しかも、『ニュー・ワールズ 傑作選No.1』にいたってはAmazonの商品ページすら存在しない有り様。古本屋などで中古を探してもらうほかありませんが、例えばディッシュの「リスの檻」なんかは、国書刊行会から出てる『アジアの岸辺』という短編集に収録されていますし、東京創元社から刊行中の『J・G・バラード短編全集』にはタイトル通りバラードの生涯書いた短編を全5巻で全て読むことができます。

このように完全に読めなくなったわけではないので、あらゆる経路でぜひこれらの本を読んでほしいと思います。今さらニューウェーブなのではなく、今こそニューウェーブ