国内ニューウェーブSFの父

 

 つい一週間前にこんなツイートをしたばかりだった。本人のブログ等で現状は把握できていたものの、まさかすぐにそのときが来るとは思っていなかったので、一瞬言葉を失ってしまった。本日、国内ニューウェーブSFの第一人者、山野浩一氏が亡くなられたのである。

 

 2011年に、創元SF文庫から、『鳥はいまどこを飛ぶか』と『殺人者の空』という二冊の山野浩一傑作選が刊行されたが、僕はそれらをちょうど今年の一月、成人式が終わった直後に丸善本店で買った。恥ずかしながら、それまで小説家としての氏の活動はまるでチェックしていなかったのだが、「多元世界の詩情」「内宇宙の原野へ」という帯文に触発され、読まなければならないと思い立つと、前日に都内の大型書店すべての在庫を確認した。二冊ともすでに絶版だったにも関わらず(電子版ではあったが、紙で読みたかった)、奇跡的に丸善にはそれぞれ在庫微少ながら収蔵してあった。スーツのまま書店に直行してSFの棚を見たが、本はなかった。そんなはずはないと慌てて店員に聞くと、「棚にないならないですね~」と言われながら再度確認してもらい、「あるはずなんですけどあるはずなんですけど……」と訴えて念のため下の引き出しを開けてもらうと……一冊ずつあった。店員さんに怪訝な顔をされながらも新品本を手に入れることができ、結果として、二十代になって初めて購入した本が山野さんの小説となった。

 

 僕は山野さんの存在を、『季刊NW‐SF』(69年に創刊された、国内におけるニューウェーブSFの先導的文芸雑誌)や、サンリオSF文庫の名前とともに知った。そのどちらにも中核的存在を担っていた山野さんは、海外の前衛的な文学やSF小説の紹介に多大なる心血を注ぎ、おそらく山野さんがいなければ、フィリップ・K・ディックサミュエル・R・ディレイニーに耽溺しているいまの自分はいなかったように思う。また、『季刊NW‐SF』の巻頭言に書かれている山野さんの時代/批評意識も、非常にアジテートされるものとして印象に残っている。山野浩一はSFのみならず、日本人作家のなかでもっとも重要な人物の一人であることは間違いないだろう。少なくとも自分はそう思っている。

 

 この件で想起したのは、山形浩生氏の「1997年」と題されたブログ記事である (http://cruel.org/wired/yamagata403.html) 。この記事では、アレン・ギンズバーグウィリアム・バロウズキャシー・アッカー、そしてジュディス・メリルの死について語られたが、1997年はニューウェーブSF、あるいはサンリオSF文庫的な精神がひとつの終わりを迎えた時代だと、個人的には思う。それから20年後に、またしても一人の「象徴」がいなくなったことには、なんらかの時代的符合を見たい気持ちを引き起こすが、同時に今年はニューウェーブSF再考の契機を生んでいるという事実もある。J・G・バラードの全集や、現在もっとも旺盛にニューウェーブSF批評を展開している評論家、岡和田晃氏の新刊などが続々と出ている。そして近刊では、なにより荒巻義雄氏の『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』。本人曰く「遺書」として書かれたそれは、彼の論敵であるとともに、国内ニューウェーブSFを共に支えた山野さんの存在抜きには絶対に読めないだろう。2017年は、さまざまな意味でニューウェーブSFの「終わり」と「始まり」を迎える年になるかもしれない。

 

 いろいろと書きたいことを書いてしまったが、大好きな作家が亡くなるという経験は想像以上にショックだった。これから何度もこのようなことは起きるのだろうし、そのたびに今回みたくいろいろと考えてしまうのかなとぼんやり思った。とりあえず、『花と機械とゲシタルト』の復刊をぜひ希望したい。

 

 最後に、山野さんのご冥福をお祈りいたします。

 

 

鳥はいまどこを飛ぶか (山野浩一傑作選?) (創元SF文庫)

鳥はいまどこを飛ぶか (山野浩一傑作選?) (創元SF文庫)

 
もはや宇宙は迷宮の鏡のように

もはや宇宙は迷宮の鏡のように

 

 

花と機械とゲシタルト (NW-SFシリーズ (2))

花と機械とゲシタルト (NW-SFシリーズ (2))