山野浩一論(仮) 第一章 第一節

 いま書いている『山野浩一論(仮)』の冒頭。全三章予定。

 

Ⅰ SF作家・山野浩一の出発――「全会一致」と「違和感」

 

 

 一九七一年、自身の主幹雑誌である『季刊NW‐SF』を創刊するなど積極的な評論活動を始め、既に批評家としてのキャリアを歩み出していた山野浩一は、みずからの「SFとの出会い」を次のように述懐している。

 

 私にとってSFとのほんとうの出会いは、SFを知ってのち随分たってからのことである。子供の頃には手塚治虫の漫画を愛読しており、SFというような言葉も相当以前から知っていて、「SFマガジン」も創刊当時に一度くらい読んだことがあったと思う。(…)しかし、その頃は特にSFの愛読者とはいえなかったし、SFを書こうと考えたことなどなかった。(…)かくて、私はこと志と異なってSF作家となったのだが、これがSFとのほんとうの出会いであったわけではない。私はそれから多くのSFを読むようになったが、確かにSFというものには思考世界を自由に展開できる素晴しい可能性がありながらそうした自由な思弁を切り開いた作品がほとんどないのである。(「THE HOME LIBRARY」 『ほるぷ新聞』一九七一年二月二十五日)

 

 この後山野は、「はっきり過去のSFへの不満を述べ」た「ニューウェーブ」SFと呼ばれる「運動」との共鳴、そしてその中心作家であるJ・G・バラードの「言葉」から「SFとのほんとうの出会い」が果たせたことを語っている。が、山野浩一が「SF」に対する意識を強くしていったのは、ほとんどデビュー以降だと言っていいだろう。じっさい、寺山修司の薦めから戯曲「受付の靴下」と小説「X電車に行こう」を書き上げ、後者がSF同人誌の『宇宙塵』、後に『SFマガジン』へ掲載されたその時から、「SFというものを知った」と言を残している。

 しかし、にもかかわらず、デビュー当時、山野の業界からの評価は高かった。高橋良平は、『鳥はいまどこを飛ぶか』(二〇一一年、創元SF文庫)の「解説」で、その頃の「新人作家」への鮮烈な印象を、当時の評言を並べながら振り返っている。それによれば、「X電車で行こう」が『宇宙塵』に初掲載された際には、「新人の作品が巻頭に載るのは、本誌としては初めてのケースですが、山野浩一氏の「X電車で行こう」は、充分それに値する傑作と思われます」といった異例の待遇、また二ヶ月後には、「最終校正まぎわにこの「あとがき」を書こうとしたところへ、三島由紀夫氏より来信あり。「X電車で行こう」が大変面白い、という文面である。(…)この作品の純文学的価値は、これでほとんど確定したといえよう。たいへんな新人が現れたものであるが、同時にこれは、文学におけるSF的方法の勝利とも考えられる」と境界横断的な評価を受けるなど、明らかに山野の才能に対し、多くの文学者が注目していた事実がうかがえるだろう。

 その後、七編の短編を収めて『X電車で行こう』(一九六五年、新書館)として単行本化された際には、二人の作家による「推薦文」が付された。星新一が、「リアリティとファンタジーを巧みに結合させ、読者をなにげないうちに、異様な驚きの世界に誘い込んでしまう」とその作風を評し、安部公房は、「もしもあなたが、現実主義者なら、気の合った魔術師とここでテーブルを共にできるだろう。逆にあなたが、空想家なら、気の合った合理主義者とここでテーブルを共にできるだろう」とその二面性を照射している。また、「この有望な新人に望みたいのは、日常性からの逃避の唄をうたうことではなく、‘‘日常性への衝撃‘‘の毒をまきちらすことだ」(石川喬司)、「氏の小説技術は必ずしも満足とはいえない。しかしながら氏のSFは考えさせるSFである。考えさせるSFはしばしば娯楽の気晴から足を踏み出すため大衆性は芽生えないかもしれないが、逆の面から見れば前衛文学の可能性も持っているのだ」(権田萬治)など、幾人の批評家が山野のもつ作家性について期待を込めつつ言及している。

 山野自身、この出発を回想して、「デビューにあたっては当時の文化人の多数に全会一致のような支持を受けている」と、周りの絶対的な評価を自認していた。1960年代前半、戦後に本格的なスタートを切った「歴史の浅」い国産の「ジャンルSF」が、「アメリカSF」に対する遅れを意識した上で成長していくこの時代に、山野浩一は、突如出現した「新人随一のホープ」(柴野拓美)にほかならなかったのである。

 

 さて、当時の日本SF界の状況を概観すれば、「戦後のSF専門誌第一号」と呼ばれる『星雲』(一九五四年)を嚆矢に「科学小説」の意義が囁かれると、世界的な「UFOブーム」の煽りを受けて発足した「空飛ぶ円盤研究会」(一九五五年)と、その会員であった柴野拓美による『宇宙塵』(一九五七年)の創刊から、星新一を始め、後の業界をリードしていく人々の集う場が形成される。そこから一九六〇年、福島正美による『SFマガジン』創刊までは数歩だった。だが、福島自身、創刊当時を回想して「この頃の、ぼく自身の気持は、いま思いだしても、ひどく重苦しいものだった」と語るように、「純粋に一つのかなり困難な出版事業」の成就にはひどく難航することとなる。当初、アメリカのSF雑誌『ファンタジー・&・サイエンス・フィクション』の「日本語版」の扱いだった『SFマガジン』は、しかし、前提知識の共有がなされていないために、ただ翻訳を掲載する措置がとれないという事情もあった。

 

 

MFSF[ファンタジー・&・サイエンス・フィクション]に限らず、アメリカのSF雑誌は、その当時すでに少なくとも三十年の伝統の上に編集されていた。それをそのままのかたちで作品をいかにうまく配置しても――日本の読者に与えたのでは、やはり、唐突な感じがするに決まっている。SFマガジンは、その三十年のギャップを埋め、しかも最新のSFの傾向をも反映するよう編集されていなければならない。そのためには、バックナンバーのみに依存せず、他の雑誌や短編集からも作品を渉猟しなければならない――(福島正美『未踏の時代』ハヤカワ文庫JA、二〇〇九年十二月、二七頁‐二八頁)

 

 

 こうした「試練」と同時に舵を切った『SFマガジン』だが、創刊から間もなく「空想科学小説コンテスト」(一九六〇年二月、第二回から「SFコンテスト」に名称変更)が開始されると、小松左京筒井康隆眉村卓平井和正半村良ら、数多くの才能を輩出することになる。そして、一九六二年に、契約金値上げの要求をきっかけに提携先からの「独立」を決断してから、日本SFは「転機」の瞬間を獲得し、「日本SF大会」の開催(一九六二年)と「日本SF作家クラブ」の発足(一九六三年)によって連帯はより強固になっていった。前者は「SF読者がまだ少なく、その概念も理解されていなかった時代」における「ファン」の拡大に寄与し、一方で後者は「[SF作家、翻訳家、評論家の]利益の拡充と擁護のための、職能団体としての組織」を目指して「プロ」の線引きを明確化した。この「団体」を発起させた前述の福島正美が、「ぼくの目的は、SFのために人生と生活とを賭けているプロと、そうでないアマチュアを、截然と区別することであった」と語っていたように、ここから日本において「SF作家」という「職業」が生まれたと言っていいだろう。福島はクラブ創設の「思考プロセス」を次のように述べる。

 

 ジャーナリズム一般は、SFを、まだ毛色の変った娯楽読物としてしか――せいぜい、ミステリーの変種か、伝奇小説の現代版くらいにしか受けとろうとしていなかった。(…)彼らにとっては、プロのSF作家も、同人作家も、大して変わりはなかった。(…)ぼくにとって、もしSFが何らかの意味を持つとしたら、まず、こうしたジャーナリズム一般の偏見を除去しなければならない。それらを打破して、はじめてSFは一人前になりうる。そしてそのためには、SFのプロは、プロとしての自己と、そうでないものと峻別しなければならない――。(前掲書、九六頁)

 

 このようにして日本SF界はほとんど十年も経たずに急速に整備されていったが、成熟はまた同時にそれぞれの作家の「思想」を深化させていく。小松左京が自身の「SF論」を披歴するようになれば、福島正美は当時において「影響力を持つ文壇人」だった荒正人と激しい「論争」を引き起こすなど、独り立ちした日本SFは徐々に理念と葛藤を加速させていき、ここに「日本におけるSF批評」の萌芽と「日本SF論争史」の系譜が編み出されていく。

 

 が、ここで重要なのは、以上のような日本SFの中心(プロ)と周縁(アマチュア)の画定と、そこから〈論争=批評〉の土壌が生成されつつあった最中に、山野浩一の台頭があったという流れだろう。 六四年のデビュー以降も、山野は『宇宙塵』を中心に小説を発表していくが、「いわゆるハードSF的なお約束」への「批判的な思い」から書かれた作品群は、次第に「科学小説」読者からの不満を呼び起こすようになる。とりわけ、「ギターと宇宙船」(一九六五年一一月)という短編の感想には、「面白くない作品です」と直截的な非難が浴びせられ、その上で「SFの主流ではない。いや、SFのかたちをとってはいるが、全くSFではないようにさえ見えます」と、「SFと他ジャンルのボーダーライン」と形容されるような山野の作風を、オーセンティックなSF読者の立場から断罪している。それに対して山野は「小生の客観的な意味でのSFの主流ではないかもしれませんが、小生の書きたいものが現段階の主流と一致しなくても仕方がないでしょう」と応答を試み、「「宇宙塵」が「宇宙塵」向きの作品ばかりを掲載していたのでは、発展性を失うでしょうし、ある意味でのさまざまな言論上の対立は必要なことでしょう」と応えており、この時点で〈宇宙塵=SF業界〉に対する「違和感」が早くもせり出していたことが分かる。そして、一九六六年に、周囲の批判の声に決着をつけるようにして「開放時間」(一九六六年四~六月)を完結させると、それ以降は『宇宙塵』から距離を置き、「創作がぷっつりと途絶え」てしまう。しかし同時にその離反は、「SF界で通念化していた出自にまつわる‘‘科学小説主義‘‘、未来や宇宙や時間やロボットなどの‘‘テーマ主義‘‘といった制度を嗜好するSF観に、疑問を呈するポレミックな評論活動に軸足を移す」契機=転回もまた意味していた。そうして山野浩一は、自身の考える「SF」とそれをとりまく状況へのズレの意識を、「小説」から「批評」へ主戦場を移しながら前面化させていく。一九七〇年に発刊された『季刊NW-SF』はその「違和感」を決定的に「かたち」にした雑誌と言えるが、巻頭号の序文として書かれた「NW-SF宣言」は、文字通り山野の「SF観」を表明する迷いなき「宣言」として読むことができる。

 

 

SFが〈Science Fiction〉から〈Speculative Fiction〉に名を変えたのは最近である。名を変えたといっても、決して〈Science Fiction〉が消滅したのではなく、むしろ現在でも〈Speculative Fiction〉が少数派で、〈Science Fiction〉が大部分の人々がSFと信じていることは否めない事実である。(…)私はこうしたことに、長い間不満といらだちを感じていた。そんな中で、ブライアン・オールディスや、J・G・バラードといった優れた作家の登場と、彼等による「ニューワールド」誌の発刊はどれだけ喜ぶべきできごとであったか計り知れないものがある。

 「ニューワールド」誌はSFを〈Speculative Fiction〉と名付け、真に私の期待した作品を開拓し始めた。SF界はニューワールド派を、「ニューウェーヴ」と呼んだが、私もここに「ニューワールド」と「ニューウェーヴ」からとったNW‐SFという名の雑誌を発刊する決心をした。NWには、かつて「ワンダー」と呼ばれたアイデア時代のSFへの反発の意味での「ノーワンダー」という意味も含まれている。(山野浩一NW-SF宣言」『季刊NW-SF vol.1』NW-SF社、一九七〇七月、一‐二頁)

 

 

 そして山野は、『季刊NW-SF』は「従来のSF読者には不満な作品や評論ばかりが掲載されるであろう。SFを「科学小説」と考えたり、或いはSFにアイデアのエンターテイメントを求めたり、また、大冒険活劇を求めたりする読者の気持は充たされないものかもしれない」と断った上で、「しかし、未だ少数派ながら、私は、これこそSFだといいたい。SFは〈Speculative Fiction〉――つまり、思考世界の小説だと」と書き付けるのである。ただし、ここで注意したいのは、山野が「ブライアン・オールディスや、J・G・バラードといった優れた作家の登場と、彼等による「ニューワールド」誌の発刊」から、〈思考世界の小説=Speculative Fiction〉を発見したわけではないという点である。初めて「ニューウェーヴSF」が本格的に日本へ紹介されたのは、一九六九年十月号の『SFマガジン』による「特集=新しい波」からだとされているが、前述の通り、山野自身の問題意識はその約三年前からすでに現れ出していた。とすれば、山野浩一にとって「ニューウェーヴSF」の発見とは、自身の思想を根本的に変えさせたような転機の出逢いというより、あくまでデビュー以来抱き続けてきた信念への確かな裏付けにほかならなかった。

 しかし、だとすれば、山野の「評論活動」が開始されてからの四年間は、そのような裏付けの言葉なしに進められたということも意味しているだろう。だが、事実、一九六六年に芽生えていた「違和感」を腑に落としていくまでの過程を問えば、そこには山野とほぼ同時代を生きながら、『季刊NW-SF』創刊と同年にSF作家として歩み出し、その初期作品から高度な「思考世界の小説」を展開してみせていた男である荒巻義雄の存在、そして、まさしく一九六六年から繰り広げられていた両者の「論争」の跡が色濃く見出されるのである。一九九〇年代の「架空戦記小説」で一躍ベストセラー作家としての地位を確立した荒巻義雄は、しかし、その初期には精神分析学の理論体系やシュルレアリスムのイメージを借りた作風で独自の〈Speculative Fiction 〉を構築していた。「一九七〇年以来、SF作家として一八〇冊を超える著作を書いてきたわたしですが、出発点は「術の小説論」でした」と言う荒巻だが、その「術の小説論」という彼の処女評論こそほかならぬ山野浩一との「論争」から生み出されたものであり、他方で、また詳しく後述するが、「日本SFの原点と指向」という山野の代表的な評論が荒巻義雄との「論争」の流れに位置付けできるものである以上、二人のSF作家は、互いに影響を与え合いながらそれぞれの理論を作り上げていったことは疑い得ない。

 したがって、当時いまだ駆け出しの「新人」であった山野浩一が抱えていた「疑問」の端緒を摑むには、〈山野‐荒巻論争〉の内実を改めて一から読解するほかないだろう。次節では、「日本SF史上、大きな刻印を残」したこの「論争」の履歴を追跡するとともに山野の「SF観」が次第に固められていく過程を見届けていく。が、先取りすれば、無論ここで強調したいのは両者の同一性ではなく差異性であり、その違いのなかから、山野浩一という固有名も徐々にその輪郭を際立たせてくるはずだ。