日本のディレイニー受容

久しぶりのブログ更新です。

大学の課題でディレイニーについて文章書いたのですが、せっかくなのでここに掲載します。日本のディレイニー受容についてまとめました。


 
 本稿では、アメリカのSF作家、サミュエル・R・ディレイニーの作品の、日本における受容史を確認する。まず、ディレイニーとはどのような作家なのか。彼の来歴を簡単に紹介したい。

 ディレイニーは、1942年にニューヨークで生まれた。20歳のとき(実は商業誌への記事執筆の経験はあったのだが)、デビュー作である『アブタ-の宝石』(1962年)を上梓してから、わずか5年で7本の長編を世に送り出したうえに、『バベル‐17』(1966年)では、翌年のネビュラ賞長編部門を受賞した。当時の業界は、ディレイニーを指して「早熟の天才」と称したらしいが、その理由は、こうした履歴を見れば判然とするだろう。
30代を迎えたときに書かれた超大作、『ダールグレン』(1975年)は、SF小説としては類のないほどのベストセラーとなるが、これを機に彼は、SFから写実主義的な現代小説の執筆に注力していく。また、このころから構造主義言語論に影響を受けた評論を多数執筆し、講師として大学へ迎え入れられるなど、対外的な活動も多くなっていった。
そして、40代、50代になると、大学の教授として教鞭を執るかたわらで、みずからもその当事者として、性的マイノリティの人々を主題とした小説や評論、ルポルタージュなどを発表した。2013年には、アメリカSF&ファンタジー作家協会から、グランドマスターの称号を受けるなど、現在では、業界からある種の「レジェンド」的存在と見なされている。以上が、ディレイニーのこれまでの歩みである。

ここで指摘しておきたいことは、ディレイニーは、いわゆる‘‘ニューウェーブSF‘‘というSFジャンルに属する作家だという事実である。議論の煩雑を避けるため、その語の詳しい説明は控えるが、さしあたりここでは、「1960年代に英米で起きたSFの変革運動とそれに呼応した作品群。おもに文章と人物描写の洗練化をはかった」という理解でかまわない。ディレイニーが、ほかのSF作家と比べて圧倒的に抜きん出ていたのは、なによりも文章への並々ならぬこだわりだった。彼は自身の評論で、次のように直截に語る。


ひどい文体によっていちばん傷つくのは、訓練不足の素朴な読者なのだ。悪文は、語から語へのイメージを修正していくのに必要以上の精神エネルギーを使い、修正そのものも実りは少ない。だからこそ、それは悪文なのだ。(サミュエル・R・ディレイニー「約5750語」 『SFマガジン1996年8月号』p.19)


 他方で、ディレイニーのSFは、「娯楽性」という点もしっかりと意識されている。これが、同時代のSF作家のなかにおいて特異さを放っているゆえんだろう。ニューウェーブSFの作品群は、その文学的表現の追求のために、ある種のストーリー展開がおろそかになってしまう傾向があった。興味深いことに、2017年にも新作が公開された映画、『スター・ウォーズ』へのSF業界からの評価が、その違いを明確に示す。このシリーズの第一作目に対して、例えば、ニューウェーブSF運動を牽引した作家であるJ・G・バラードは、「まったく真剣さのない最初のSF映画だ」とこき下ろし、そのほかの作家も、ほとんど断罪するようにして否定的な態度を見せている。ディレイニーの場合は、むしろ、‘‘Great New S.F.Film‘‘ だとして賞賛を送り、「これまでに観てきた二時間の映画のうちでは、いちばん短く感じられる作品だった」と述べている。バラードとディレイニーは、英米間のニューウェーブSFにおけるそれぞれの代表的存在だが、両者のSF観の相違はここをもって明らかだろう。
デビューから一貫して、ディレイニーは、「ヒロイック・ファンタジー」あるいは「スペース・オペラ」を描き続けてきたのであり、その理由は、純粋に、彼が「冒険小説好き」だからにほかならない。さらに、評論家の宮城博は、邦訳された『アブタ-の宝石』の解説において、ディレイニーと、19世紀末のフランスの耽美主義作家との影響関係に着目している。実際に、ディレイニーが、ランボーコクトーユイスマンスといった作家を耽読していたという事実を挙げ、彼らの文学のキッチュなモチーフを、SFを書く際にも意識していたのではないか、と宮城は指摘する。この主張は、端的に言って、ひじょうに的確だと言わざるをえない。ディレイニー自身もこう述べている。


SFがめざすヴィジョンは、詩のヴィジョンとたいへん近いようにわたしには思われる。とくに十九世紀象徴派の詩人たちとの近親性は大きい。作品がどれほどきびしい規律のもとに書かれていようと、‘‘非現実‘‘の世界に移行するためには、神秘主義と触れ合う必要がある(同上p.21)


 このあとにディレイニーは、「象徴派の詩人たちと現代アメリカ思弁小説との関連をもっと徹底的に調べたものをわたしは読みたい」と言い添える。宮城がこのテクストを読んでいたかどうかはわからないが、訳出されたのがずっと後のことと考えると、先見的な議論を展開していたと見るべきだろう。

 話がさまざまな方向へ行ってしまったが、これでディレイニーの作家的立場は了解してもらえたはずだ。本稿の目的は、日本のディレイニー受容についてであった。「ディレイニー」の文字は、いつ日本へ輸入されたのだろうか。以降、その最初期から検討したい。

 ここに、いささかユニークなテクストがある。SF翻訳家の伊藤典夫によるエッセイ、「ディレーニイディレイニー」である。ここで書かれているように、実は、「Delany」の日本語表記には、出版社によって微妙なバラつきが生じていた。早川書房の場合は、「ディレーニイ」または「ディレイニー」と表記していたり、サンリオSF文庫を読むと、今度は「ディレーニ」などと訳されており、統一がはかられることはなかった。しかし、現在では、「Delany」は、いま私が記しているように「ディレイニー」の表記に固定したといってよいだろう。『ドリフトグラス』は、日本でもっとも新しく出たディレイニーの邦訳書だが、そこには「サミュエル・R・ディレイニー」の著者名が印字されている。考えてみれば、この帰着は自然なことであったと言うほかにない。なぜなら、初の「Delany」の日本語訳は、ほかならぬ「ディレイニー」であったのだから。そして、そう訳すことを決めた人物こそ、まさにそのエッセイを書いている伊藤典夫本人であった。


 わが国でディレイニーの名前が最初に活字になったのは、一九六八年五月号の本誌〈SFスキャナー〉のページである。当時これは最新のSF情報を伝えるぼくの連載コラムだった。ぼくはその号でネビュラ賞のニュースを伝え、彼の『バベル‐17』の粗筋紹介をしているのだが、そのときの表記がすでに「ディレイニー」!(伊藤典夫ディレーニイディレイニー」 『SFマガジン1996年8月号』p.33)


 「Delany」は、東洋へ伝来されたときから「ディレイニー」であり、その後「ディレーニイ」、「ディレーニ」という変遷を経ながらもまた「ディレイニー」へとたどり着いたのである。ここで、ひとりの作家の命名の歴史について振り返ってみたが、無論、ここで大事なのは、1968年こそ、ディレイニー日本上陸の年だということである。そして、2年後の1970年には、ハヤカワ・SF・シリーズから『バベル‐17』の邦訳が出版され、SF作家サミュエル・R・ディレイニーの全貌が明らかとなる。

 ところで、この当時のSF業界と日本国内全体の空気は、どのようなものだっただろうか。1964年にはオリンピックも経験したこの国は、まさに高度成長の只中におり、ディレイニー初邦訳と同年に開かれた大阪万博では、「進歩と調和」をスローガンに、SF作家の小松左京もプロデューサーにむかえられた。私個人の感覚でいえば、この時代は、「SFと社会が協調していた時代」と呼ぶことができるのはないか、と考える。つまり、それは、科学技術の進化と並走して国家全体の豊かさも向上するはずだ、という確信に基付いた動きだったのである。
 しかしながら、「SF」と「社会」のこの癒着は、むしろSF的想像力の幅を狭くしてしまう弊害があったことを指摘しておかなければならない。日本においてニューウェーブSF運動を推進した作家、山野浩一が、以下のように述べている。


 楽しみにしていた月へ降りた十年前ぐらいにみんなが考えていたことは、月へ行けばひじょうにすばらしいことがあるんじゃないか、具体的にはそう予想しないかもしれないけれど精神的にはすごく大きな夢が広がるんじゃないかとおもっていたら、到達したとたんにありとあらゆる夢がすべて終わってしまった。(山野浩一荒俣宏松岡正剛『SFと気楽』p.20)

 
世界が目指していた「月」は、いわば「坂の上の雲」であり、たどり着いた達成感のあとに残るのは、単なる虚しさだけだった。「SF」の夢が、「社会」によって実現したとき、つぎに噴出するのは、あらたなる未知との出遭いへの夢想か、科学発展の功罪に対する批判的まなざしのどちらかである。前者は、70年代後半から勃興するハリウッドSF映画ブームにつながり、後者は、ニューウェーブSFの問題を日本にもたらす契機となった。山野浩一は、「シリアスに現代という科学技術の世界を考え直」すようにわれわれに訴えたが、彼によって創刊されたレーベル、サンリオSF文庫(創刊1979年~廃刊1987年)は、そのような理念に則ったSF小説をつぎつぎと日本へ紹介した。そして、ディレイニーも、この流れから人口に膾炙していくのである。こうした土壌が整うまでには、初紹介からおよそ10年の年月が必要だった。翻訳家の米村秀雄は、「『バベル‐17』しか訳されていない状況では(…)評価するにしても充分なものにはなりえない」と述べていたが、その真意を把捉するには、まず以上の背景を認識する必要があるだろう。

 サンリオSF文庫から発刊されたディレイニーの小説は、『時は準宝石の螺旋のように』(1979年)、『エンパイア・スター』(1980年)、『アブタ-の宝石』(1980年)の3タイトルである。それぞれ、著者の短編集、代表作、デビュー作が刊行されたことによって、ディレイニーの作家的多面性が理解されはじめたといえるだろう。ただ、作品が多く訳された事実よりも、その多面性を受け止める態勢が整ったということを重要視するべきである。この時代から、若手のSF翻訳家が多く台頭してきた点を見逃してはならない。『サンリオSF文庫総解説』所収の、山野浩一と、翻訳家/書評家の大森望との対談では、そのことについて、1970年代のSF翻訳界を「大空白時代」だとしたうえで、つぎのように語られている。


   大(引用者注:大森望)逆に、翻訳が出ないおかげで、しかたなく原書で読みはじめて、SFマニアがたくさん生まれた。
   山(引用者注:山野浩一)で、その中から何人かが、翻訳家や評論家になり、いろんな形で育っていることも事実なんですよね。
                       (『サンリオSF文庫総解説』p.17)


この話は、SF業界における「ファンダム」の形成とも深く関わっているが、思い起こせば、サンリオSF文庫の『エンパイア・スター』も、訳者の米村秀雄が、自身の同人誌上で訳出したものをあらためて書籍化したものだった。そのような「ファン活動」から、ディレイニーひいてはニューウェーブSF作品全体の、日本における受容は支えられたのである。
『時は準宝石の螺旋のように』の、米村秀雄の解説は、ディレイニーの経歴からその作家的特性までを詳らかにしたテクストであり、作風の特徴から、第一期、第二期、第三期と時期的に区分けしたうえで、それぞれの変遷の内実にせまっている。また、『アブタ-の宝石』の解説では、宮城博が、処女作であるそれには、のちの作品の要素がすべてあらわれているとして、その要素を分解して説明している。それらを総合して図解すると以下のように表せる(未訳の作品は原文で表記)。


第1期 『アブタ-の宝石』~『The Fall of the Towers』3部作(初期長編)イメージの鮮烈さと緻密な構成         
                                   
第2期 『エンパイア・スター』~『ノヴァ』(絶頂期)スタイルの確立⇒①表現力の向上 ②作品構造の複雑化 ③テーマの多様化 ④結末の不完全性

第3期『ダールグレン』~『Triton』(大作)文章の写実化

          ↑↑
[a] テーマ (1)探求の物語 (2)善悪の相対性 (3)精神の成長
[b]スタイル (1)荒唐無稽な冒険譚 (2)隠喩的文体 (3)魅力的な人物


 こうした努力によって、それまで伝えられていなかったディレイニーの魅力が、具体的な解説を通して理解されるようになった。それから、1980年代に入ると、ハヤカワ文庫から、最高傑作との誉れも高い『ノヴァ』が邦訳された(1988年)。また、巽孝之の『サイバーパンク・アメリカ』では、アメリカ留学中の巽が、コーネル大学にておこなわれたディレイニーの集中講義を受講したときのエピソードについて、対談も交えて書かれている。そこでは、当時のSF的趨勢だった「サイバーパンク」と、ディレイニーとの関係が丹念に読み解かれ、彼のあらたな〈像〉を発見するものだった。
1990年代では、『アインシュタイン交点』が、原著からおよそ30年の時を経て邦訳された(1996年)と同時に『SFマガジン』上ではじめて特集が組まれ、ふたたびスポットライトが当たることになる。そのときの『SFマガジン』は、「サミュエル・R・ディレイニー」と「新世紀エヴァンゲリオン」の二大特集号だった。そのなかのエッセイで、大森望は、『エンパイア・スター』のラストと「エヴァンゲリオン」の最終話の類縁性について(冗談半分で)述べているが、ここまで歴史を追えばわかるように、「外宇宙 outer space」の作品を描きながら、深層では「内宇宙 inner space」の世界を構築し、「電脳空間 cyber space」の萌芽さえものぞかせていたディレイニーが、ここにきてもう一度「内宇宙 inner space」の作家として読まれるといった、ある種パラレルな読解の系譜が編み出される。気付けば、ディレイニーは、初紹介の1970年代から、つねに新しい「読み」の可能性を提示し続ける作家だった。ここで、彼の代名詞である「マルチプレックス」という語を想起することはまったく正しい。時代が進むたびに、その読解可能性はまた拡がっていくにちがいないのだ。
 
 最後に現状について触れておきたい。2010年代には、メガトン級の分量を誇る問題作、『ダールグレン』の邦訳が出版された(2011年)。災害によって荒廃した都市を舞台とするこの小説と、同年に発生した東日本大震災との関係を指摘する向きもあるだろうが、そのような議論をおいておくにしても、ただSFにとどまらない作風の幅を示す本書をもって、ディレイニーは再三、業界の話題をさらう存在となった。2014年には、ディレイニーの全短編を網羅したコレクション『ドリフトグラス』も刊行され、サンリオSF文庫絶版にともない、多くの短編を読むことが困難だった状況も改善されたことで、現代の読者をも獲得できるような地平がひらかれた。
 さきに主張したように、ディレイニーは、時代の変遷とともにその読み方も変わるような、まさに「マルチプレックス」な作家である。2010年代も終わろうとするいま、あらたな ‘‘plex‘‘ が要請されている。『エンパイア・スター』のなかで、〈全知の観察者〉ジュエルはこう言っていた。「あなたがたが知覚したものをどう整理するか、ある時点から別の時点へどのように旅をするのか、その問題はあなたがたに残しておくことにする」(『エンパイア・スター』p.154)。この台詞は、ディレイニーから読者へ与えられた、ひとつの挑戦状ではないか。だとすれば、私はこれからもディレイニーを読み続けていかなければならないだろう。

 
 参考文献

サミュエル・R・ディレーニ『時は準宝石の螺旋のように』伊藤典夫浅倉久志他訳、サンリオSF文庫、1979年
サミュエル・R・ディレーニ『エンパイア・スター』米村秀雄訳、サンリオSF文庫、1980年
サミュエル・R・ディレーニ『アブタ-の宝石』下浦康邦訳、サンリオSF文庫、1980年
サミュエル・R・ディレイニー『バベル‐17』岡部宏之訳、ハヤカワ文庫SF、1977年
サミュエル・R・ディレイニーアインシュタイン交点』伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫SF、1996年
サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』【新装版】伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫SF、2005年
サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』大久保譲訳、国書刊行会、2011年
サミュエル・R・ディレイニー『ドリフトグラス』浅倉久志伊藤典夫、小野田和子、酒井昭伸深町眞理子訳、国書刊行会、2014年

山野浩一荒俣宏松岡正剛『SFと気楽』工作舎、1979年
巽孝之サイバーパンク・アメリカ』勁草書房、1988年
牧眞司大森望(編)『サンリオSF文庫総解説』本の雑誌社、2014年

SFマガジン 1996年8月号』早川書房
SFマガジン 1997年8月号』早川書房

サンリオSF文庫目録 1980年夏」株式会社サンリオ